TabiShiri
小田原城へ戻る
武将戦国時代

北条早雲

ほうじょうそううん

1456 〜 1519

武将「北条早雲」(戦国時代)

See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

伊勢宗瑞、伊勢盛時、伊勢新九郎、早雲庵宗瑞、早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門

戦国大名の先駆けとされる武将。 室町幕府の幕臣・備中伊勢氏の出身で、駿河の今川家の家督争いを収めたのち伊豆へ進出し、続いて相模一国を平定して、五代百年にわたる小田原北条氏の礎を築いた。 四公六民の税制と戦国大名として最古級の検地で知られる。ただし本人は生涯「伊勢」を名乗り、「北条早雲」と呼ばれたことは一度もない。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、本人が一度も「北条早雲」と名乗っていないという事実にある。生前の署名は「伊勢宗瑞」「伊勢新九郎」。北条を称したのは、その死後、嫡男の氏綱の代である。名前からして後世が作った像なのだから、それ以外の逸話も疑ってかかったほうがよい。 【素浪人ではなかった】かつては「一介の素浪人から身を起こした下剋上の体現者」として語られた。これは誤りである。1950年代以降の研究によって、宗瑞が備中伊勢氏の出身で、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の一族だったことが明らかになった。父の伊勢盛定は将軍足利義政の申次衆を務めた幕臣で、母は京都伊勢氏宗家・伊勢貞国の娘である。宗瑞自身も幕府の申次衆として記録に現れる。出生地は備中荏原荘(現在の岡山県井原市)とも京都ともいう。諱は長く長氏・氏茂などと伝えられてきたが、1990年代後半から「盛時」が定説となった。 【姉と駿河】宗瑞の姉は北川殿といい、応仁元年(1467年)に駿河守護の今川義忠に嫁いだ。文明5年(1473年)に龍王丸、のちの今川氏親を産む。ところが文明8年(1476年)、義忠が塩買坂で討たれ、幼い龍王丸の家督が危うくなる。北川殿は京の弟を頼り、宗瑞は駿河へ下向して、小鹿範満を家督代行とする形で争いを収めた。かつてはこれが「立身出世の第一歩」と語られたが、近年は幕府の命を受けた家督相続への介入と見る評価が有力である。宗瑞は最初から、幕府の側の人間として東国に現れている。 【伊豆討ち入り】明応2年(1493年)、宗瑞は伊豆へ攻め入り、堀越公方の足利茶々丸を追った。私的な野心による侵略ではない。茶々丸は将軍足利義澄の母と弟を殺しており、義澄と細川政元の意向を受けた討伐であった。「三十日で平定した」と伝わるが実際はそう単純ではなく、茶々丸は逃れて狩野氏・土肥氏らと抵抗を続け、決着は明応7年(1498年)8月の深根城(下田市)攻略までかかっている。宗瑞は韮山城を居城とし、生涯ここを本拠とした。小田原には移っていない。 【小田原】相模の小田原城をいつ手に入れたかは、はっきりしない。従来は明応4年(1495年)9月とされ、小田原城公式もこの年を採る。一方で黒田基樹は、明応5年以降とすべき史料上の根拠を示している。確実なのは文亀元年(1501年)3月の文書で、このとき宗瑞が小田原城下の土地を自領と交換しており、すでに領有していたことが分かる。 なお、大森藤頼を油断させ、千頭の牛の角に松明を灯して夜襲したという有名な話は『北条記』に載るもので、史実として確かめられてはいない。 【相模平定】永正9年(1512年)8月、三浦義同(道寸)の岡崎城を落とし、同年10月に鎌倉へ玉縄城を築いて三浦攻めの拠点とした。永正13年(1516年)、三崎城で義同・義意父子が果て、鎌倉以来の名族三浦氏は滅びる。宗瑞は相模一国を平定した。 【四公六民と虎の印判】宗瑞の名を残したのは、戦よりむしろ統治のほうかもしれない。永正3年(1506年)、小田原周辺で指出検地を実施した。戦国大名による検地として最も古い事例である。税は四公六民に定め、それまでの煩瑣で重い課税を整理した。死の前年からは虎の印判状が用いられ、印判のない徴収命令は無効とされた。郡代や代官が百姓や職人から勝手に取り立てることを、制度として封じたのである。 家法「早雲寺殿廿一箇条」は後の分国法の祖形とされるが、成立時期は不明で、宗瑞が定めたというのは所伝にとどまる。 【生年の謎】永正16年(1519年)8月15日に没した。享年については、従来説の永享4年(1432年)生まれなら88、黒田基樹が唱えた康正2年(1456年)生まれなら64となる。従来説は江戸中期以降の系図に由来し、姉の北川殿との年齢差と合わない。近年は康正2年説が有力視されている。六十四歳で没したのなら、伊豆討ち入りは三十八歳、相模平定は六十一歳の仕事ということになる。「八十を過ぎて国を取った老雄」という像は、ここでも崩れる。 【墓所】菩提寺は箱根湯本の早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本405、臨済宗大徳寺派)。宗瑞の遺言により、大永元年(1521年)に氏綱が建立した。境内には北条五代の墓が並び、国の重要文化財である北条早雲像を蔵する。天正18年(1590年)の小田原攻めで焼失し、寛永4年(1627年)に再興された。