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その他江戸時代初期

左甚五郎

ひだりじんごろう

別名・通称

左の甚五郎、伊丹利勝

江戸時代の初めごろの名工として語り継がれる、伝説的な彫刻の職人。実在したかどうかははっきりせず、辞典や百科事典も「生没年不詳」「実在かさだかでない」とする。1594年から1651年ごろの人とする説もあるが、根拠は確かめられていない。日光東照宮の眠り猫、上野東照宮の唐門の龍など、全国の社寺の彫刻が「左甚五郎の作」と伝えられるが、多くは後世の伝承である。講談や落語、歌舞伎でも親しまれてきた。
生涯・逸話
左甚五郎(ひだりじんごろう)は、江戸時代の初めごろの名工として語り継がれる、伝説の彫刻の職人です。この人物を理解する鍵は、「実在したかどうかがはっきりしないのに、全国の社寺に名前が残っている」ところにあります。 【どんな人物と伝わるか】 神社やお寺の彫刻や建物を、見事な腕前でつくった名工とされます。日光東照宮の眠り猫や、上野東照宮の唐門の龍など、有名な彫刻が「左甚五郎の作」と伝えられています。 【実在したのか】 実在したかどうかは、はっきりしていません。辞典や百科事典には、「生没年は不詳」「実在したか否かはさだかでない」と書かれています。世界大百科事典(執筆は西和夫)は、各地に作品が伝わっていることから、「伝説上の人物と考えるほうがよいようだ」と述べています。 いっぽうで、生駒家(いこまけ)の分限帳(ぶげんちょう、家来の名簿)に、大工頭(だいくがしら)として「甚五郎」の名が記されていることから、そうした名の大工がいたことは認められる、ともされます。ただし、その甚五郎が「左」の姓だったことや、京都で禁裏(きんり、皇室)の大工の棟梁(とうりょう)を務めたことは、裏づけられないといわれています。 【生まれた年や出身地】 文禄3年(1594年)から慶安4年(1651年)ごろの人とする説が紹介されることがあります。けれども、はっきりした根拠は確認できず、多くの辞典は「生没年不詳」としています。 出身地も、播磨国の明石(はりまのくに あかし、今の兵庫県)とする説、紀伊国の根来(きいのくに ねごろ、今の和歌山県)とする説、讃岐(さぬき、今の香川県)とする説があり、定まっていません。伊丹(いたみ)という姓で、名は利勝(としかつ)とする説もあります。 【名前の「左」のわけ】 「左」の由来には、いくつかの説があります。ひとつは、左利きだったからという説です。講談(こうだん)では、ほかの職人にねたまれて右腕を切り落とされ、左手で仕事をしたので「左」と名乗ったと語られます。また、「飛騨(ひだ)の甚五郎」という呼び名が、なまって「左(ひだり)」になったという説もあります。 【物語の中の甚五郎】 講談、浪曲(ろうきょく)、落語、歌舞伎などで、たくさんの物語が語られてきました。たとえば、京都の知恩院(ちおんいん)の御影堂(みえいどう)の天井には、左甚五郎が置いていったと伝わる「忘れ傘」があります。竜の彫刻が毎夜、池に下りて水を飲んだ、という伝説もあります。歌舞伎には、思いを寄せた美しい女性を人形に彫る甚五郎の話を題材にした演目もあります。 【作品と伝えられるもの】 次のものは、どれも「左甚五郎の作」と伝わる作品です。同じころの史料で確かめられたものではなく、後世の伝承です。 ・日光東照宮(栃木県日光市)の眠り猫と三猿 ・上野東照宮(東京都台東区)の唐門の昇り龍と降り龍 ・秩父神社(埼玉県秩父市)の子宝・子育ての虎とつなぎの龍 ・知恩院(京都市東山区)の忘れ傘と、鶯張り(うぐいすばり)の廊下 ・出雲大社(島根県出雲市)の八足門(やつあしもん)の彫刻 日光東照宮の公式サイトは、眠り猫について「左甚五郎の作といわれていますが定かではない様です」と案内し、作者は不明としています。猫の彫刻は東回廊の蛙股(かえるまた)にあり、全長は約21センチです。 【なぜ全国に作品が伝わるのか】 作品が伝わる期間は約300年にもわたり、出身地もまちまちです。このことから、甚五郎は一人の人物ではなく、各地の腕のよい職人をたたえる代名詞として使われたようだといわれます。江戸時代の中ごろから、神社などに彫刻をたくさん飾ることがはやったことも、背景にあるとされます。庶民がすぐれた作品を一人の英雄に結びつけて語り、その名が講談などで広まったと考えられています。 【訪ねるときに】 「左甚五郎の作」と伝わる彫刻に出会ったら、だれがつくったかだけでなく、その彫刻にまつわる物語もあわせて楽しんでみましょう。作者がはっきりしなくても、職人たちが心をこめてつくった技は、今も社寺で見ることができます。