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学者・文化人江戸時代

林羅山

はやしらざん

1583 〜 1657

学者・文化人「林羅山」(江戸時代)

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00033894, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

羅山、林信勝、林道春、儒学者、江戸幕府初代大学頭

江戸初期の儒学者(1583-1657)。 藤原惺窩に朱子学を学び、23歳で徳川家康に仕えてから、秀忠・家光・家綱まで四代の将軍に仕えた。 武家諸法度の起草に関わり、上野忍岡に開いた学問所はのちの湯島聖堂・昌平坂学問所へと続く。 全国の神社の縁起を儒者の目で検証した『本朝神社考』の著者でもある。
生涯・逸話
京都の浪人の家に生まれた。通称は又三郎、諱は信勝。 13歳で建仁寺に入って学んだが、僧になることを拒んで家に戻り、独学で書を読みふけった。 慶長9年(1604年)、22歳のとき朱子学者・藤原惺窩に出会い、その門下に入る。 翌慶長10年(1605年)、惺窩の推挙により二条城で徳川家康に謁見した。 23歳である。以後この人は、家康・秀忠・家光・家綱と四代の将軍に仕え続けた。 一人の学者が政権の中枢に居続けた例として、江戸期を通じても異例といえる。 慶長12年(1607年)、家康の命で剃髪し、道春と号した。当時、学者が公の場に立つには僧形をとるほかなかった。 儒者でありながら僧の姿をとるという矛盾を、羅山は生涯背負っている。 その仕事は文章に関わるほぼ全域に及んだ。武家諸法度の起草、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』といった編纂事業、外交文書の作成。編著は150を超える。 寛永7年(1630年)、家光から上野忍岡(現在の上野公園のあたり)の地を与えられ、同9年に私塾と文庫、そして孔子廟を建てた。この孔子廟が先聖殿である。元禄3年(1690年)、五代将軍綱吉によって湯島へ移され、大成殿と改称された。今の湯島聖堂がそれにあたる。寛政9年(1797年)には、ここが幕府直轄の昌平坂学問所となる。羅山が自邸の庭に建てた小さな廟が、やがて幕府の最高学府へと育っていった。
湯島聖堂
湯島聖堂

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寺社をめぐる者にとって見逃せないのが『本朝神社考』である。 寛永15年(1638年)から正保2年(1645年)にかけて編まれたこの書で、羅山は全国の主だった神社の縁起を集め、『古事記』『日本書紀』『延喜式』『風土記』と突き合わせて検証した。 そのうえで神仏習合を退け、朱子学の理気論によって神道を説き直そうとしている。神社の由緒を、ただ信じるものではなく調べる対象として扱った、きわめて早い時期の仕事である。この姿勢は後の垂加神道などにも影響を与えた。 明暦3年(1657年)正月、江戸の町を焼き尽くした明暦の大火により、神田の自宅と、生涯をかけて集めた蔵書が灰になった。羅山はその四日後に倒れ、まもなく世を去る。 75歳。書物を失ったことが寿命を縮めたとも言われる。 墓は東京都新宿区市谷山伏町の林氏墓地にある。
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