学者・文化人幕末
橋本左内
はしもとさない
1834 〜 1859

別名・通称
左内
幕末の越前福井藩士(1834〜1859)。藩医の家に生まれ、15歳で自分を戒める書『啓発録』を書きました。
大坂の適塾で蘭学を学び、のちに藩主・松平春嶽の相談役として、将軍の跡継ぎ問題で一橋慶喜を推して奔走しました。
安政の大獄で捕らえられ、26歳の若さで処刑されました。
生涯・逸話
15歳の少年が、自分に向けて書いた決意の書がある。橋本左内(はしもとさない)の『啓発録(けいはつろく)』だ。わずか26年の生涯で、左内はその決意どおり、学び、国のために走り続けた。
【15歳の決意】
天保5年(1834)、越前福井藩の藩医の長男として生まれた。
15歳のとき、自分を戒めるために『啓発録』を書いた。そこには「稚心(ちしん、幼い心)を去る」「気を振るう」「志を立てる」「学に勉(つと)む」「交友を択(えら)ぶ」という五つの教えが記されている。
【学びの日々】
儒学者・吉田東篁(よしだとうこう)に学んだのち、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)が開いた適塾(てきじゅく)に入り、蘭学を学んだ。
安政2年(1855)には藩医をやめて藩士の御書院番(ごしょいんばん)となり、藩校・明道館(めいどうかん)で教えながら、学校の改革にも取り組んだ。
【春嶽の相談役として】
やがて江戸に出て、藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の相談役となり、国の大事のために力を尽くした。
将軍の跡継ぎを誰にするかという問題では、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推して奔走した。この問題を通じて薩摩藩の西郷隆盛とも親しくなり、西郷は左内からの手紙を亡くなる直前まで大切に持っていたという。
【安政の大獄】
しかし跡継ぎは紀州藩主に決まり、大老・井伊直弼による安政の大獄で、左内は捕らえられた。
安政6年(1859)、26歳の若さで斬首された。
【ゆかりの地をたどる】
福井市春山2丁目の生家跡には、産湯の井戸の跡と「啓発録碑」が残る。
福井市左内町の左内公園には、左内と両親の墓、市民の寄付で建てられた左内の像、『啓発録』の碑がある。
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