TabiShiri
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天皇平安・鎌倉

後鳥羽院

ごとばいん

1180 〜 1239

天皇「後鳥羽院」(平安・鎌倉)

別名・通称

後鳥羽、後鳥羽天皇、後鳥羽上皇、顕徳院、隠岐院、尊成

平安時代末期から鎌倉時代前期の天皇・上皇(1180〜1239年)。4歳で即位し、のちに上皇として院政を行いました。和歌所を再興し、『新古今和歌集』の編纂に深く関わった歌人でもあります。1221年、北条義時を討つよう命じて承久の乱を起こしましたが、幕府軍に敗れ、隠岐に流されて、その地で亡くなりました。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、三種の神器(さんしゅのじんぎ)のないまま幼くして即位した天皇が、院政を行って朝廷の中心となり、やがて幕府との戦いに踏み切った、その歩みにあります。 【生い立ちと即位】 1180年(治承4年)7月14日、高倉天皇(たかくらてんのう)の第4皇子として京都に生まれました。母は七条院殖子です。名は尊成といいます。1183年(寿永2年)、平氏が安徳天皇(あんとくてんのう)を連れて都落ちしたため、4歳で即位しました。祖父の後白河法皇(ごしらかわほうおう)の意向によるとされ、三種の神器のない即位でした。 【院政と文化への関心】 1198年(建久9年)、19歳で土御門天皇(つちみかどてんのう)に位をゆずり、上皇として院政(いんせい、退位した天皇が政治を行うしくみ)を始めました。院政は、土御門、順徳(じゅんとく)、仲恭(ちゅうきょう)の3代の天皇にわたりました。1202年に源通親(みなもとのみちちか)が亡くなると、上皇が政治の中心になったとされます。蹴鞠(けまり)、琵琶(びわ)、笛、囲碁などを楽しみ、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、相撲、水泳などの武芸も好みました。刀の製作と鑑定にも関わったとされます。西面の武士(さいめんのぶし)という武士の部隊も置きました。 【新古今和歌集】 1201年(建仁元年)、和歌所(わかどころ)を再興し、同じ年の11月、藤原定家(ふじわらのさだいえ)ら6人を撰者に任じて、『新古今和歌集』の編纂を命じました。上皇は撰集の作業に自ら加わり、選んだ歌に三度「御点(ごてん)」を付けて、歌を絞り込んだと伝えられます。1205年(元久2年)3月26日には、完成を祝う竟宴(きょうえん)が開かれ、この日が成立の日とされています。その後も、上皇の意向で歌の増やしたり削ったりが行われました。 【承久の乱】 1221年(承久3年)5月15日、上皇は、北条義時(ほうじょうよしとき)を討つよう命じる院宣(いんぜん、上皇の命令書)を出して、挙兵しました。幕府では、北条政子(ほうじょうまさこ)が御家人(ごけにん)たちに、源頼朝以来の恩を訴えたと『吾妻鏡(あずまかがみ)』は伝えます。幕府軍は京へ進み、およそ1か月で京方をおさえました。これを承久の乱といいます。上皇は鳥羽殿に幽閉され、7月に出家して、隠岐へ流されました。 【隠岐での晩年】 1221年7月13日に京を出発し、8月5日、隠岐の海士郡刈田郷(あまぐんかりたごう、現在の島根県海士町)に着きました。住まいは、現在「後鳥羽院行在所跡」として伝えられています。隠岐でも和歌を詠み続け、『遠島御百首』などを残しました。「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」は、この時期の歌です。1234年ごろには、『新古今和歌集』を見直し、約400首を削って、隠岐本と呼ばれる本を作ったと伝えられます。隠岐での暮らしは約18年半(19年とする資料もあります)に及び、1239年(延応元年)2月22日、配所で亡くなりました。享年は60(数え年)でした。 【没後の呼び名と祀られる地】 没後、まず「顕徳院(けんとくいん)」という諡号(しごう)が贈られましたが、のちに「後鳥羽院」に改められました。1242年(仁治3年)の改称とする資料があり、上皇の怨霊が出るといううわさがあったためと説明されています。陵(みささぎ)は京都市左京区の大原陵(おおはらのみささぎ)で、隠岐の海士町(あまちょう)にも火葬塚があります。大阪府島本町(しまもとちょう)の水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、上皇の離宮だった水無瀬殿の跡に建ち、上皇を祀っています。隠岐の海士町にある隠岐神社は、没後700年を記念して1939年(昭和14年)に造営されました。