天皇平安時代
後白河院
ごしらかわいん
1127 〜 1192

別名・通称
後白河、後白河天皇、後白河法皇、雅仁親王、行真、大天狗
生涯・逸話
【どんな人物か】
後白河(ごしらかわ)は、平安時代の終わりごろの第77代天皇である。のちに上皇(じょうこう)、さらに法皇(ほうおう)となって、長いあいだ政治を動かした。本名は雅仁親王(まさひとしんのう)。
大治2年(1127)9月11日、鳥羽天皇(とばてんのう)の第4皇子として生まれた。母は待賢門院(たいけんもんいん)である。
【天皇になる】
久寿2年(1155)、異母弟の近衛天皇(このえてんのう)が17歳で亡くなり、29歳で即位した。思いがけない即位とされる。
翌年の保元元年(1156)、鳥羽法皇が亡くなると、兄の崇徳上皇(すとくじょうこう)の側と武力でぶつかった。これが保元の乱(ほうげんのらん)である。源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)らの活躍で後白河の側が勝ち、崇徳上皇は流された。
保元3年(1158)、守仁親王(もりひとしんのう、二条天皇)に位をゆずった。そして上皇として院政(いんせい、退位した天皇が政治を行う仕組み)を始めた。
【院政と平清盛】
平治元年(1159)、信西(しんぜい)に反感をもつ人々が平治の乱(へいじのらん)を起こし、源義朝らが後白河の御所を襲った。清盛がこれをしずめ、源氏は力を失い、平氏が勢力をのばした。
嘉応元年(1169)に出家して法皇となり、法名を行真(ぎょうしん)といった。
清盛とは協力と対立をくりかえした。治承3年(1179)、清盛は法皇を鳥羽殿(とばどの)にとじこめ、院政を止めた。約1年後にとかれ、院政を再開した。
院政は、一時の中断をはさみながら、二条から後鳥羽まで5代の天皇のあいだ、30余年に及んだ。
【源平の争乱と頼朝】
寿永2年(1183)、平氏が都を去ると、法皇は行動を共にせず、都に入った源義仲(みなもとのよしなか)に平氏を追討するよう命じた。同時に、源頼朝(みなもとのよりとも)にも東国の支配を認めて上洛をうながし、義仲をおさえようとした。
建久元年(1190)、頼朝が上洛して法皇と対面した。頼朝は武士を率いて、日本国総追捕使(そうついぶし、全国の軍事と警察をうけもつ役)の役目を担うことになった。
頼朝は、法皇を「日本国第一の大天狗(だいてんぐ)」と評したと伝わる。大天狗とは、ここでは老獪(ろうかい、経験豊かでずる賢いこと)な人物という意味である。
【今様と梁塵秘抄】
後白河は歌が好きで、平安時代の終わりに流行した歌謡「今様(いまよう)」を、身分や年齢を問わず人々と歌ったと伝わる。
法皇は今様を集めて、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編んだ。
【ゆかりの地】
京都の蓮華王院(れんげおういん、通称・三十三間堂)は、長寛2年(1164)に後白河(当時は上皇)の願いで建てられた。平清盛が費用を出して造営した。堂の中には、1001体の千手観音像(せんじゅかんのんぞう)がある。
【最期】
建久3年(1192)3月13日、六条殿(ろくじょうどの)で亡くなった。数え年で66歳だった。