TabiShiri
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天皇南北朝時代

後醍醐天皇

ごだいごてんのう

1288 〜 1339

天皇「後醍醐天皇」(南北朝時代)

別名・通称

後醍醐、尊治、尊治親王

鎌倉時代の終わりから南北朝時代のはじめの第96代天皇です(1288年から1339年)。天皇が自ら政治を行うことを目指し、鎌倉幕府をたおす計画を立てて隠岐(おき)に流されましたが、脱出して挙兵し、1333年に幕府が滅びました。その後、建武の新政(けんむのしんせい)を始めましたが、足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立して京都を離れ、吉野(よしの)に朝廷を開きました。京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ、南北朝時代の中心にいた天皇です。
生涯・逸話
【この天皇を理解する鍵】 後醍醐天皇を理解する鍵は、天皇が自ら政治を行う「天皇親政」を目指した、ということです。鎌倉時代の終わりごろは、幕府が力を持っていました。後醍醐天皇は、その幕府をたおして、天皇中心の政治を行おうとしました。 【生まれと即位】 正応元年(しょうおう元年、1288年)11月、後宇多天皇(ごうだてんのう)の第二皇子として生まれました。母は藤原忠子(談天門院)です。諱(いみな、本名)は尊治(たかはる)といいます。正安4年(1302年)に親王となり、文保2年(ぶんぽう2ねん、1318年)、31歳で即位しました。元亨元年(げんこう元年、1321年)には、父の後宇多法皇が院政をやめ、後醍醐天皇の親政が始まりました。 【倒幕の計画と隠岐への流罪】 正中元年(1324年)、倒幕を計画した疑いで、側近の日野資朝(ひのすけとも)が六波羅探題(ろくはらたんだい)に処分されました。これを正中の変といいます。このとき、公式の判決では、後醍醐天皇は無罪とされました。 元弘元年(げんこう元年、1331年)、倒幕の計画が幕府に知られると、後醍醐天皇は京都を出て笠置山(かさぎやま)にたてこもりました。しかし9月に落城して捕らえられ、元弘2年(1332年)に隠岐へ流されました。この間、楠木正成(くすのきまさしげ)は河内・和泉(今の大阪府)のあたりで、幕府軍と戦い続けました。 【隠岐を脱出、幕府の滅亡】 元弘3年(1333年)閏2月、後醍醐天皇は名和長年(なわながとし)らの助けで隠岐を脱出し、伯耆国(ほうきのくに、今の鳥取県)の船上山(せんじょうさん)から、倒幕を呼びかけました。幕府軍の将として進んでいた足利尊氏が天皇側に味方して六波羅探題を攻め、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻めました。同じ年の5月、鎌倉幕府は滅びました。 【建武の新政】 帰京した後醍醐天皇は、記録所(きろくしょ)や雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)などを再び設けて、親政を行いました。これを建武の新政といいます。しかし、天皇の命令書である綸旨(りんじ)が出されすぎて混乱したことや、公家と武家の対立などの問題があり、約2年半で行き詰まりました。この政治の評価は分かれます。花園院(はなぞのいん)は日記で厳しく批判し、江戸時代の新井白石(あらいはくせき)や頼山陽(らいさんよう)も批判しました。一方で、土地の区分に基づく統治や、地方の仕組みを強めたことが、のちの全国の政権の土台になったと評価する見方もあります。 【足利尊氏との対立】 尊氏は、はじめ後醍醐天皇に重んじられていました。しかし、中先代の乱(なかせんだいのらん)のあと、尊氏が独自に恩賞を与えたことを、後醍醐天皇は離反とみなして、尊氏を討つよう命じました。尊氏は九州で力を立て直して京都へ攻め上り、湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で新田軍・楠木軍を破りました。 【吉野に朝廷を開く】 後醍醐天皇は、比叡山から下りたあと、京都の花山院(かざんいん)にとじこめられましたが、そこを脱出し、建武3年(延元元年、1336年)に吉野に入りました。吉野に開いた朝廷を南朝(なんちょう)といい、京都の北朝(ほくちょう)と並び立つ南北朝時代が始まります。両朝は元中9年(明徳3年、1392年)に一つになるまで続きました。吉野ではまず吉水院(よしみずいん、今の吉水神社)を行在所(あんざいしょ、仮の御所)とし、のちに実城寺(じつじょうじ)を金輪王寺と改めて皇居としたと紹介されています。 【最期】 延元4年(暦応2年、1339年)8月15日、義良親王(のりよししんのう、のちの後村上天皇)に位をゆずり、翌16日に吉野で亡くなりました。数え年で52歳(満で50歳)でした。「体は吉野の山に埋まっても、魂は京の空を望み続ける」という意味の遺詔(いしょう、遺言)を残したと伝えられます。 【陵と著作】 陵(みささぎ、墓)は、奈良県吉野町の如意輪寺(にょいりんじ)の境内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)で、宮内庁が管理しています。北向きに造られたとされ、「北面の御陵」と呼ばれます。有職故実(ゆうそくこじつ、朝廷の儀式や決まりごと)の研究書である『建武年中行事』(けんむねんじゅうぎょうじ)も著しました。