TabiShiri
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武将幕末・明治

五代友厚

ごだいともあつ

1836 〜 1885

武将「五代友厚」(幕末・明治)

別名・通称

友厚、五代才助、五代徳助

幕末から明治の薩摩出身の実業家(1836-1885)。藩の留学生を率いてヨーロッパを視察し、明治政府の役人を経て大阪で実業界に入った。大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)の初代会頭を務め、大阪株式取引所や大阪商業講習所の設立に力を尽くして、近代の大阪経済の土台を築いた。
生涯・逸話
幕末に海外の産業をその目で見た五代友厚(ごだいともあつ)は、明治に入ると大阪へ移り、商いの都に新しい仕組みを次々と持ち込んだ。 【薩摩の若者】 天保6年(1836)、薩摩藩の儒者で町奉行も務めた五代秀堯(ごだいひでたか)の次男として、鹿児島に生まれた。幼名は徳助、通称は才助という。 安政4年(1857)、藩の命を受けて長崎へ行き、幕府の海軍伝習所で航海・砲術・測量などを学んだ。文久3年(1863)の薩英戦争では、イギリス軍の捕虜となったが、のちに抜け出している。 【ヨーロッパへ】 慶応元年(1865)、五代は薩摩藩の留学生を率いてヨーロッパに渡り、各地の産業や制度を見て回った。この経験が、のちの事業の土台となった。 【明治政府から実業界へ】 明治新政府では参与・外国事務局判事・大阪府判事などを務めたが、明治2年(1869)に職を辞し、大阪で実業の道に入った。 金銀を分析する金銀分析所を開いて大きな利益を上げ、明治6年(1873)には鉱山を取りまとめる弘成館(こうせいかん)を、明治9年(1876)には藍を作る工場の朝陽館(ちょうようかん)を設けた。 【大阪の経済を支える】 明治11年(1878)には大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)をつくり、初代の会頭となった。大阪株式取引所の設立にも力を尽くし、商人を育てる大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立にもかかわった。 明治14年(1881)には、北海道の開拓使の官有物を払い下げる問題に関わったとして批判を受けている。 明治18年(1885)9月25日、東京で亡くなった。享年51(数え年)。