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武将平安時代

藤原秀郷

ふじわらのひでさと

武将「藤原秀郷」(平安時代)

Tsukioka Yoshitoshi, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

俵藤太、田原藤太

平安時代中期の武将。生没年不詳。下野国を拠点とした豪族で、「俵藤太(たわらのとうた)」の通称でも知られる。天慶3年(940)、平貞盛らとともに平将門を討って乱を鎮めた。近江の三上山の大百足退治の伝説でも有名。小山氏・結城氏などの祖とされる。
生涯・逸話
藤原秀郷の百足退治。中央に龍女、左は藤原宿祢。勝川春亭画。1815年頃
藤原秀郷の百足退治。中央に龍女、左は藤原宿祢。勝川春亭画。1815年頃

Katsukawa, Shuntei, 1770-1820, artist, Public domain, via Wikimedia Commons

この人物を理解する鍵は、下野国を拠点とした豪族でありながら、平将門の乱を鎮めた功績で武家の名門の祖と仰がれ、さらに「俵藤太」として百足退治の伝説の主人公にもなった、史実と伝説の二つの顔にあります。 【出自と名前】 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平安時代中期の武将で、生没年は分かっていません。藤原北家の魚名(うおな)の子孫とされ、父は下野大掾(しもつけのだいじょう)の村雄といわれます。下野国(現在の栃木県)を拠点とする豪族として力をもちました。通称は「俵藤太(たわらのとうた)」、「田原藤太」とも書かれます。 【平将門の乱】 天慶3年(940)2月、下野掾(しもつけのじょう)・押領使(おうりょうし、地方の武士を率いて反乱を鎮める役)として出陣し、平貞盛(たいらのさだもり)らとともに、下総国(しもうさのくに)の北山(現在の茨城県坂東市付近)で平将門(たいらのまさかど)を討ちました。将門が亡くなったのは2月14日とされています。乱を鎮めた功績で従四位下(じゅしいのげ)に叙され、下野守・武蔵守(むさしのかみ)などに任じられました。 【武家の名門の祖として】 子孫は、小山氏・結城氏、藤原姓の足利氏、下河辺氏、亘理氏などの武家に分かれたとされます。この藤原姓の足利氏は、足利尊氏の源氏の足利氏とは別の家です。栃木県佐野市の佐野氏も子孫とされ、奥州藤原氏の祖ともされます。 【俵藤太の百足退治】 秀郷は、近江国(現在の滋賀県)の三上山(みかみやま)の大百足(おおむかで)を退治した伝説でも知られます。伝説では、瀬田の唐橋(せたのからはし)で出会った大蛇は琵琶湖の竜神(竜女とも伝わる)の化身で、三上山の大百足の退治を秀郷にたのみました。秀郷が退治すると、お礼に黄金の太刀と鎧などを授かったと、『俵藤太物語』(たわらのとうだものがたり)や絵巻に描かれています。これは史実ではなく、伝説として語られてきた話です。 【ゆかりの地】 佐野市の唐澤山神社(からさわやまじんじゃ)は、秀郷を祭神として祀っています。