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武将幕末・明治

榎本武揚

えのもとたけあき

1836 〜 1908

武将「榎本武揚」(幕末・明治)

別名・通称

武揚

幕末・明治の海軍軍人・政治家(1836〜1908)。長崎海軍伝習所で学び、オランダに留学した。慶応4年(1868)、旧幕府の艦隊を率いて蝦夷地(北海道)に渡り、箱館(函館)の五稜郭を拠点に新政府軍と戦った。降伏して入獄したのち赦免され、駐露公使として樺太・千島交換条約を結び、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を務めた。
生涯・逸話
江戸の幕臣の家に生まれ、オランダで学んだ海軍の知識をもとに、旧幕府の艦隊を率いて蝦夷地(えぞち、北海道)へ向かった人物です。新政府軍に降伏したあとは明治政府に迎えられ、いくつもの大臣を務めました。 【江戸に生まれて】 天保7年(1836)8月25日、江戸で幕臣の家の子として生まれました。幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)で学んだと伝わります。 【海軍とオランダ留学】 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)で、西洋式の海軍の技術を学びました。 文久2年(1862)、幕府の留学生としてオランダへ渡ります。5年ほど学び、慶応3年(1867)、オランダで造られた軍艦・開陽丸(かいようまる)に乗って帰国しました。 帰国後は開陽丸の船将(艦長)となり、慶応4年(1868)には幕府の海軍副総裁になりました。 【箱館へ】 江戸城が新政府に明け渡されたあと、榎本は旧幕府の艦隊を率いて江戸湾を出て、蝦夷地へ向かいました。旗艦の開陽丸は、のちに江差(えさし)沖で沈没しています。 榎本たちは箱館(はこだて、現在の函館)の五稜郭(ごりょうかく)を拠点とし、明治元年12月(旧暦)、士官以上の人々による入札(いれふだ、投票)で総裁に選ばれました。 この政権は、のちに「蝦夷共和国」と呼ばれます。外国人が英語で共和国(Republic)と呼んだことから広まった呼び名とされ、榎本が独立国家を宣言したわけではないとも言われます。 【降伏とその後】 新政府軍の攻撃を受け、明治2年(1869)5月18日、五稜郭を明け渡して降伏しました。 新政府軍の参謀だった黒田清隆(くろだきよたか)らが榎本の助命に力を尽くしたと伝わります。榎本は入獄したのち、明治5年(1872)に特赦(とくしゃ)で出獄し、開拓使(かいたくし)に出仕しました。 【明治政府で】 明治7年(1874)、駐露特命全権公使(ちゅうろとくめいぜんけんこうし)としてロシアに赴き、明治8年(1875)、樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)を結びました。樺太(からふと)の権利をロシアに譲る代わりに、千島列島を日本領とする内容です。 そのあと、明治13年(1880)に海軍卿(かいぐんきょう)、明治15年(1882)に清国公使となります。明治18年(1885)に内閣制度ができると、逓信大臣(ていしんだいじん)に就きました。 のちに文部大臣、外務大臣、農商務大臣を務め、枢密顧問官(すうみつこもんかん)にもなっています。五稜郭で戦った黒田清隆が首相を務めた内閣にも、大臣として加わりました。 【晩年】 明治41年(1908)10月26日に亡くなりました。享年は数え年で73です。 【ゆかりの地】 墨田区の梅若公園(うめわかこうえん)には、大正2年(1913)に建てられた榎本武揚の銅像があります。墨田区の登録有形文化財です。 文京区の吉祥寺(きちじょうじ)には、榎本武揚の墓があります。