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武将戦国時代

伊達政宗

だてまさむね

1567 〜 1636

武将「伊達政宗」(戦国時代)

日本語: 土佐光貞 English: Tosa Mitsusada, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

政宗、独眼竜、独眼竜政宗、藤次郎、梵天丸、貞山、武振彦命

戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけての武将(1567〜1636年)で、仙台藩の藩祖です。幼いころに右目を失ったと伝えられ、「独眼竜」の通称で知られます。18歳で伊達家の当主となり、東北南部に勢力を広げたのち豊臣秀吉に従い、関ヶ原の戦いでは徳川家康方につきました。仙台に城を築き、和歌や茶道にも通じた文化人でもありました。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、戦国の世の終わりに生まれ、力で領地を広げた若き当主が、天下の大きな流れを見きわめて、仙台藩の礎を築いた点にあります。 【生い立ちと「独眼竜」】 1567年(永禄10年)8月3日、出羽国(でわのくに)の米沢城(山形県米沢市)で、伊達輝宗(だてるむね)の子として生まれました。母は最上義守(もがみよしもり)の娘、義姫(よしひめ)です。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)で、1577年の元服(げんぷく)のあとは藤次郎政宗(とうじろうまさむね)と名乗りました。幼いころ、天然痘(てんねんとう)で右目を失ったと伝えられます。「独眼竜(どくがんりゅう)」という通称は、ここから生まれたものです。 【東北南部へ勢力を広げる】 1584年(天正12年)、18歳で父から家督(かとく)を譲られ、伊達家の当主になりました。1589年には摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名氏(あしなし)を破り、会津(あいづ)に居城を移しました。この結果、浜通り(はまどおり)地方などを除く東北南部の大部分を手にし、伊達家の歴史でもっとも広い領土になりました。このとき、政宗は23歳でした。 【秀吉への臣従】 1590年(天正18年)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めに参陣し、秀吉に従いました。到着が遅れたとされますが、その事情ははっきりしていません。この結果、会津は取り上げられ、蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられました。1591年には、一揆(いっき)を鎮めた葛西(かさい)・大崎(おおさき)地方を与えられ、居城を岩出山(いわでやま、宮城県大崎市)に移しました。1593年には、秀吉の朝鮮出兵にも加わり、朝鮮半島に渡りました。 【関ヶ原と仙台藩】 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)では、徳川家康(とくがわいえやす)方につきました。上杉方の白石城(しろいしじょう)を攻め取り、山形の最上義光(もがみよしあき)へ援軍を送って、上杉軍を引き上げさせました。戦いのあと、政宗は城づくりに取りかかり、地名を「仙台」に改めました。1601年(慶長6年)、仙台城の築城に着手し、まだ工事中の城に移りました。仙台城は、青葉城(あおばじょう)とも呼ばれます。1610年には大広間が完成し、主要部分がほぼ出来上がりました。 仙台藩は62万石と呼ばれます。60万石とする記述もあり、62万石には近江(おうみ)と常陸(ひたち)にある2万石の領地が含まれるとされます。 【文化と慶長遣欧使節】 和歌、茶道、能楽、書にも通じた文化人だったとされます。大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)は、政宗の命で造られた神社です。1613年(慶長18年)には、家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をスペインとローマへ派遣しました。これを慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)といいます。常長は1620年に帰国しましたが、幕府のキリスト教への禁制が強まっていたため、目的を果たせなかったといわれます。 【最期と瑞鳳殿】 1636年(寛永13年)5月24日、江戸で70歳で亡くなりました。第3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)が、病床の政宗を自ら見舞っています。政宗は死期を悟り、仙台の経ヶ峯(きょうがみね)に墓所の造営を命じました。翌1637年、2代藩主の忠宗(ただむね)が、霊屋(おたまや)の瑞鳳殿(ずいほうでん)を建てました。瑞鳳殿は戦災で焼失し、現在の建物は再建されたものです。 【神として祀られる政宗】 1874年(明治7年)、伊達家の旧家臣たちが中心となって、仙台に青葉神社が創建されました。祭神は武振彦命(たけふるひこのみこと)の名で、政宗が祀られています。例年5月には、政宗をしのぶ仙台・青葉まつりが行われます。