TabiShiri
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武将室町時代

足利義満

あしかがよしみつ

1358 〜 1408

武将「足利義満」(室町時代)

別名・通称

義満、鹿苑院、北山殿、室町幕府3代将軍

室町幕府の第3代将軍(1358〜1408)。有力な守護をおさえて幕府の力を強め、1392年に南北朝の対立を終わらせた。京都の北山に北山殿(のちの鹿苑寺、金閣寺)を営み、明との国交を開いて日明貿易の道をひらいた。
生涯・逸話
【どんな人物か】 足利義満(あしかがよしみつ)は、室町幕府(むろまちばくふ)の第3代将軍で、幕府の力がもっとも強かった時代をきずいた人物である。 延文3年(1358)、初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の孫として生まれた。 【将軍になる】 父の足利義詮(あしかがよしあきら)が亡くなった翌年の応安元年(1368)、11歳(数え年)で第3代将軍となった。 若いあいだは、管領(かんれい、将軍を助ける最高の役職)の細川頼之(ほそかわよりゆき)が政治を支えた。頼之は1379年の康暦の政変(こうりゃくのせいへん)で失脚した。 義満は、幕府をおびやかすほどの力をもつ守護(しゅご、各地を治める武士)をおさえていった。1391年の明徳の乱(めいとくのらん)で山名氏清(やまなうじきよ)らをたおし、1399年の応永の乱(おうえいのらん)で大内義弘(おおうちよしひろ)をたおした。 【南北朝の合一】 明徳3年(1392)、南朝(なんちょう)の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)から北朝(ほくちょう)の後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器(さんしゅのじんぎ)が渡され、長く続いた南北朝の対立が終わった。 【出家と北山殿】 応永元年(1394)、将軍の職を子の義持(よしもち)にゆずり、太政大臣(だじょうだいじん)となった。翌年に出家したのちも、政治の実権をにぎりつづけたとされる。 応永4年(1397)ごろから、京都の北山に山荘「北山殿(きたやまどの)」をつくりはじめた。その中心の建物が、のちに金閣(きんかく)とよばれる三層の舎利殿(しゃりでん)である。 義満の死後、子の義持が遺志にしたがって北山殿を寺に改め、これが鹿苑寺(ろくおんじ、通称・金閣寺)となった。寺の名は義満の法号(ほうごう、出家後の名)にちなむ。夢窓疎石(むそうそせき)を開山(かいさん、最初の住職)とする。 金閣は1950年の放火で焼けたが、1955年に再建された。鹿苑寺は1994年に「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産に登録された。 【明との国交と文化】 応永8年(1401)、義満は明(みん、中国)との国交を開き、明から「日本国王」と認められた。のちに勘合(かんごう)という割り符を使った貿易が始まり、これを日明貿易(にちみんぼうえき)という。 足利家の寺として京都に相国寺(しょうこくじ)を建て、能(のう)の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)親子を支援した。この時代の文化は、北山殿の名から「北山文化(きたやまぶんか)」とよばれる。 【最期】 応永15年(1408)5月6日、北山殿で急に亡くなった。数え年で51歳だった。