TabiShiri
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武将戦国時代

朝倉義景

あさくらよしかげ

1533 〜 1573

武将「朝倉義景」(戦国時代)

別名・通称

義景、朝倉左衛門督、朝倉延景

戦国時代の越前国(今の福井県)の大名で、朝倉氏の最後の当主です(1533年〜1573年)。一乗谷を本拠に京風の文化を楽しみましたが、浅井氏とともに織田信長と戦い、天正元年(1573年)に敗れて自害しました。
生涯・逸話
【生まれと家督】天文2年(1533年)9月24日、越前国の朝倉孝景の子として生まれました。初めの名前は延景(のぶかげ)です。天文17年(1548年)に父が亡くなり、16歳で家をつぎました。朝倉氏の当主としては11代目とされますが、越前の朝倉氏として数えると5代目になります。 【一乗谷の文化】本拠の一乗谷(いちじょうだに、今の福井県福井市)には、一族や重臣の屋敷が集められ、京風の庭園をもつ武家屋敷もありました。義景は曲水の宴(きょくすいのえん)を開くなど、京都の文化を好みました。 【足利義昭】永禄9年(1566年)ごろ、足利義昭が義景を頼って越前に来ると、一乗谷に迎えて詩歌の宴を開きました。しかし義景が上洛を進んで助けなかったため、義昭は織田信長を頼り、永禄11年(1568年)に信長とともに京都へ上りました。 【信長との戦い】元亀元年(1570年)4月、信長が越前に攻めこみ、金ヶ崎(かねがさき)などの城を落としました。このとき浅井久政・長政の親子が信長から離れて朝倉方についたため、信長は急いで退きました。同じ年の6月には、朝倉・浅井の軍が、姉川の戦いで織田・徳川の軍に敗れています。 【最期】天正元年(1573年)、刀禰坂(とねざか、今の福井県敦賀市)の戦いに敗れて越前へ退き、一乗谷は焼け落ちました。大野へ逃れましたが、従兄弟の朝倉景鏡(かげあきら)に背かれ、8月20日、大野の六坊賢松寺(ろくぼうけんしょうじ)で自害しました。41歳でした。 【一乗谷朝倉氏遺跡】一乗谷の町の跡は、今は一乗谷朝倉氏遺跡として、国の特別史跡に指定されています。