僧侶戦国時代
安国寺恵瓊
あんこくじえけい
1539 〜 1600

別名・通称
恵瓊
生涯・逸話
武将たちが刀で争った戦国の世に、言葉と交渉で毛利家を支えた僧がいた。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)である。織田信長の行く末を言い当てたような書状で知られるが、その生涯は毛利家と豊臣家のあいだを取り持つ外交の連続だった。
【滅びた家の子】
生まれた年ははっきりしない。安芸国(いまの広島県)の銀山城(かなやまじょう)主・武田信重(たけだのぶしげ)の子とされる。
天文10年(1541)、銀山城が毛利氏に攻め落とされると、幼い恵瓊は逃れて安芸の安国寺に入った。
のちに京都の東福寺で竺雲恵心(じくうんえしん)に学び、天正7年(1579)には東福寺退耕庵(たいこうあん)の庵主となっている。
【毛利家の外交僧】
恵瓊は、かつて自分の家を滅ぼした毛利氏のために働く外交の僧となった。
天正元年(1573)に京都に上ったときの報告の書状には、「信長の代は5年、3年はもつだろう。そのあとは高転び(たかころび)にあおむけに転ぶだろう」「藤吉郎(秀吉)はなかなかの者だ」と書いている。
のちの本能寺の変と秀吉の台頭を言い当てたようにも見えるため有名だが、これを「予言」と言い切るのは慎重であるべきだとされる。
天正10年(1582)、秀吉が備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)を攻めたときには、毛利方の使者として秀吉との講和をまとめた。
【大名となった僧】
その後は秀吉からも厚く信頼され、四国攻めのあと伊予(いまの愛媛県)に領地を得て、のちに6万石の大名となった。
僧でありながら大名でもあるという、当時でも珍しい立場だった。
【関ヶ原、そして最期】
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍の中心人物の一人として動いた。だが南宮山(なんぐうさん)に陣を構えた毛利勢は、吉川広家(きっかわひろいえ)にさえぎられて動けないまま、西軍の敗北を知る。
恵瓊は京都に逃れて身を隠したが、まもなく捕らえられた。
同年10月1日、京都の六条河原で、石田三成・小西行長とともに斬られた。
【ゆかりの地をたどる】
広島市東区の不動院(ふどういん)は、かつての安芸安国寺である。火災で多くの建物を失ったこの寺の再建に恵瓊は力を尽くし、いまある建物の多くは恵瓊が建てたといわれる。
国宝の金堂は、大内義隆が山口に建てた建物を恵瓊がここに移したと伝えられる。
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