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武将戦国時代

明智光秀

あけちみつひで

1528 〜 1582

武将「明智光秀」(戦国時代)

投稿者がファイル作成, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

光秀、明智十兵衛、惟任日向守、日向守

戦国時代の武将(1528?-1582)。 織田信長の重臣として丹波を平定したが、天正10年(1582)の「本能寺の変」で信長を討った。 直後の山崎の戦いで羽柴(のちの豊臣)秀吉に敗れた。 本能寺の変から敗死までが約11日だったことから、「三日天下」と称される。
生涯・逸話
明智光秀を理解する鍵は、前半生がほとんど分からないことと、本能寺の変の動機がはっきりしないことの、ふたつの「謎」にある。 【出自と前半生】 享禄元年(1528)ごろ、美濃国(現在の岐阜県)の明智氏に生まれたとされる。 ただし生年は同時代の確かな史料では分からず、永正13年(1516)とする史料もある。 出自は、美濃の守護・土岐(とき)氏の流れをくむ明智氏とされるが、確かな史料はない。 生誕地にも複数の説がある。 若いころは、越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼ったとされる。 【信長の家臣として】 足利義昭(あしかがよしあき)の上洛に関わり、のちに織田信長に仕えた。 ある時期は、義昭と信長の両方に仕えたとされる。元亀4年(1573)には義昭と別れ、信長の直臣として戦った。 元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで活躍し、近江の滋賀郡を与えられて、琵琶湖に面した坂本城を築いた。 天正3年(1575)には「惟任(これとう)」の姓と日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と名乗った。 同じ年に丹波・丹後の平定を命じられ、天正7年(1579)に黒井城を落として丹波を平定した。 丹波では、亀山城や福知山城を整えた。 連歌(れんが)の会で句を詠んだ記録や、茶会の記録も残り、教養のある文化人でもあった。 【本能寺の変】 天正10年(1582)6月2日の早朝、光秀は約13,000人とされる軍勢を率いて京都の本能寺を襲い、信長を自害に追い込んだ。 信長のそばにいた者は、100人足らずだったとされる。 光秀軍の兵の多くは、討つ相手を知らされていなかったと、当時の記録に伝わる。 動機は、信長への怨恨、将来への不安、天下への野望など、さまざまな説が出されているが、定説はない。 いまも日本史最大の謎の一つとされる。 【山崎の戦いと最期】 信長を討った光秀に対し、中国地方で戦っていた羽柴秀吉は、軍を急いで引き返した。 6月13日、山崎で秀吉の軍と戦った光秀は敗れた。 光秀は、近江の坂本へ向かう途中、山城国の小栗栖(おぐるす)で農民に襲われて命を落としたとされる。 自刃したとする辞典もある。享年は55とも57ともいわれる。 本能寺の変から敗死までが約11日だったことから、この短い天下は「三日天下」と呼ばれる。 【光秀を伝える場所】 坂本城跡(大津市)は、光秀が初めて築いた城の跡である。城の遺構はほとんど残らないが、坂本城址公園に光秀の像が立つ。 西教寺(大津市坂本)は、比叡山焼き討ちのあと光秀が復興に力を尽くした寺で、境内に明智一族の墓所がある。 光秀が築いた丹波亀山城の跡は、亀岡市にある。 亀岡市の谷性寺(こくしょうじ)は、光秀が篤く信仰した不動明王を祀る寺で、光秀の首塚と伝わるものがある。 首塚は、寺伝では家臣が首を持ち帰って葬ったとされるが、確かなことは分かっていない。 福知山市には、光秀が整えた福知山城がある。天守は昭和61年(1986)に復元された。 同じ市内の御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、光秀を祀る神社で、光秀が城下町を整え、地子銭(じしせん、土地にかかる税)を免除したという話が伝わる。