この城について
淡路島最大・西日本でも有数の水軍の山城。
16世紀初頭に安宅氏が築いたと伝わり、天正13年(1585)に城主となった脇坂安治(わきざかやすはる、賤ヶ岳七本槍の一人)が総石垣の城に大改修した。
江戸時代は徳島藩・蜂須賀家の重要支城として家老の稲田家が管理し、続日本100名城(#164)に選ばれている。
歴史・由来
洲本城(すもとじょう)を理解する鍵は、「水軍の要から総石垣の名城へ」という改修の歴史と、「蜂須賀家の家老・稲田家が明治維新まで守り続けた」という江戸時代の統治のかたちにある。
築城の時期については2つの説が伝わり、永正7年(1510)、または大永6年(1526)に三好氏の重臣・安宅氏(あたぎし)が三熊山(みくまやま)の山頂に城を築いたとされる。天正10年(1582)頃には仙石秀久(せんごくひでひさ)が淡路の諸城を支配し、四国攻めに備えた水軍城として石垣造りへの整備を進めたと伝わる。
洲本城の姿を大きく変えたのは、天正13年(1585)に城主となった脇坂安治である。
賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた「賤ヶ岳七本槍」の一人として知られる安治は、24年にわたる在城のあいだに洲本城を総石垣の城へと大改修した。山頂から山麓へ向けて蛇行しながら伸びる2本の登り石垣(のぼりいしがき)は、この時期に築かれたと考えられている。
慶長14年(1609)、脇坂安治が伊予大洲(いよおおず、今の愛媛県大洲市)へ移ると、淡路は藤堂高虎(とうどうたかとら)に与えられたが、高虎は在城せず代官を派遣するのみだった。
その後、慶長15年(1610)に池田輝政(いけだてるまさ)、慶長18年(1613)に輝政の三男・忠雄(ただかつ)と、淡路の領主は目まぐるしく替わり、この間の政治の中心は洲本城ではなく岩屋城・由良城(ゆらじょう)に置かれた。
元和元年(1615)の大坂夏の陣の後、淡路一国は徳島藩・蜂須賀家の蜂須賀至鎮(よししげ)に与えられた。当初は由良に拠点が置かれたが、寛永8年(1631)から寛永12年(1635)にかけての「由良引け」と呼ばれる移転により、筆頭家老の稲田家が洲本城に本拠を移し、城下町を整えた。以後、稲田家が城代として明治維新までこの城を守り続けた。
明治の廃城令で建物の多くは失われたが、総石垣の遺構は良好な状態で残り、続日本100名城(#164)に選ばれている。
見どころ・特徴
【総石垣の名城】脇坂安治による大改修で、東西800メートル、下の城まで含めると南北600メートルにおよぶ総石垣の堅城となった。
【登り石垣】山頂から山麓へ向けて蛇行しながら伸びる2本の登り石垣が残る。全国でも珍しい貴重な遺構。
【日本最古の模擬天守】昭和3年(1928)、昭和天皇の御大典を記念して建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守。現存する模擬天守としては日本最古とされ、城好きのあいだで知られている。
【絶景】山頂からは紀淡海峡(きたんかいきょう)や四国まで一望できる。
【近隣の観光地とあわせて】鳴門の渦潮、明石海峡大橋など淡路島の観光地とあわせて訪ねやすい。
学び・特徴
築城
16世紀初頭、安宅氏による築城と伝わる(永正7年〈1510〉説・大永6年〈1526〉説)。天正13年(1585)、脇坂安治により総石垣の城へ大改修
テーマ
続日本100名城
基本情報
住所
兵庫県洲本市小路谷1272
見学時間
史跡は屋外のため終日見学可能。御城印・続日本100名城スタンプを頒布する洲本市立淡路文化史料館(麓)は9時から17時まで。月曜休館(祝日は開館)。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
神戸・大阪方面からはJR「舞子」駅から高速バスで「洲本バスセンター」下車。神戸淡路鳴門自動車道「洲本インターチェンジ」から車で約25分、山頂までは「三熊山ドライブウェイ」で上ることができる。御城印・スタンプは麓の洲本市立淡路文化史料館(洲本市山手1-1-27)で入手できる。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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