TabiShiri
寺 御朱印曹洞宗・總持寺直末・安東氏菩提寺 秋田市

補陀寺

ほだじ

この寺について
正平4年(貞和5年・1349年)、月泉良印が比内庄松原(現在の大館市)に開いた曹洞宗の寺。のちに秋田へ移り、安東氏の菩提寺として栄えた。秋田市内では最古の禅寺とされる。總持寺の直末として東北一円に末寺を広げ、東奥の小本山、東北の中本山とも称された。二代目の住職は、後醍醐天皇の側近であった藤原藤房が出家した姿と伝わる。杉並木の参道の奥に楼門が立ち、楼門と本堂は秋田市の有形文化財に指定されている。秋田七福神の大黒天、秋田三十三観音霊場第23番の札所。

歴史・由来

この寺を理解する鍵は、移ってきた寺だという点にある。 正平4年(貞和5年・1349年)、月泉良印がこの寺を開いた。ただし場所はここではない。比内庄松原、いまの大館市である。秋田の北、内陸の地だった。 寺が現在地へ移った時期は分かっていない。不思議なのは、移った先の地名もまた「松原」だったことである。偶然か、地名ごと携えてきたのか、記録は語らない。 安東氏がこの寺を菩提寺とした。安東氏は津軽から秋田へ移り、湊城・檜山城を拠点に出羽北部を押さえた一族である。彼らの庇護のもと、補陀寺は總持寺の直末として力を持ち、東北一円へ末寺を広げていった。東奥の小本山、東北の中本山という呼び名は、その勢力を示している。 そしてこの寺には、一人の人物の影がある。 二代目の住職を務めた無等良雄は、藤原藤房が出家した姿だと伝えられている。藤房は後醍醐天皇の側近として建武の新政の中枢にいた人物で、政権の行く末に絶望して突如出奔し、以後の消息を絶った。その後どこへ行ったのかは諸説あって定まらない。北の禅寺に辿り着いたというのは、そのうちのひとつである。 真偽は確かめようがない。だが、京の政治の中心にいた男が北国の山あいの寺で余生を送ったという話が、この寺に六百年以上語り継がれてきたこと自体が、ひとつの事実ではある。 本堂は安永7年(1778年)に建てられたものを主体とし、楼門とともに秋田市の有形文化財に指定されている。

見どころ・特徴

【杉並木の参道】門前から本堂へ、杉の大木が並ぶ道が続く。市街地から車で来ると、この参道に入った瞬間に空気が変わる。境内でもっとも印象に残るのは、建物ではなくこの道だという人が多い。 【楼門】秋田市指定有形文化財。二階建ての門で、参道の杉並木を抜けた先に構える。 【本堂】秋田市指定有形文化財。安永7年(1778年)に建てられたものが主体となっている。江戸中期の禅寺本堂がそのまま残る例は、秋田では貴重である。 【藤原藤房の墓】境内に、二代住職・無等良雄すなわち藤原藤房のものと伝わる墓がある。建武の新政から姿を消した人物の行方を、この寺は自らの境内に置いている。伝承であって確証はないが、その伝承を六百年抱えてきたことがこの寺の性格を表している。 【秋田七福神の大黒天】七福神めぐりの第6番。正月に七か所を回る人が訪れる。 【秋田三十三観音霊場 第23番】観音霊場の札所でもある。曹洞宗の禅寺でありながら観音信仰の場でもあるという、この寺の二つの顔が表れている。 【御朱印】庫裏で直書きしていただける。
学び・特徴
主祭神
聖観音菩薩釈迦牟尼仏
社格
曹洞宗・總持寺直末・安東氏菩提寺
創建
正平4年(貞和5年・1349年)比内庄松原にて開創、のち当地へ移転
ご利益
厄除け家内安全金運
テーマ
巨木・御神木パワースポット歴史
基本情報
住所
秋田県秋田市山内字松原26
アクセス
JR秋田駅から車で約20分。駐車場あり。
記念メダル

スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。

参拝記録

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