この寺について
禅宗(黄檗宗)の寺院。もとは白山平泉寺に属する「南教坊」という坊で、延宝6年(1678)に霊潭元洪が住持となり、元禄3年(1690)に幕府から寺号を許されて円福山国泰寺と称した。江戸時代を通じて勝山藩主・小笠原家の菩提寺のひとつとして庇護を受けている。明治29年(1896)の勝山町大火で全焼し、現在の伽藍はその後の再興。今は坐禅堂を備えた研修道場として活動しており、観光向けの拝観寺院ではない。
歴史・由来
【この寺を理解する鍵】
国泰寺という名前がついたのは元禄3年(1690)で、そこまで新しい寺に見える。しかしこの寺の出発点は、名前を持つよりずっと前にある。かつて北陸最大級の宗教都市だった白山平泉寺(はくさんへいせんじ)の、坊のひとつだった。
【平泉寺の坊だった時代】
勝山市の東部には、白山信仰の拠点として栄えた平泉寺がある。最盛期には数千の坊が山中に立ち並んだと伝えられる巨大な寺院群だったが、戦国時代の一向一揆(いっこういっき)によって焼き払われ、かつての規模を失った。
国泰寺の前身は、この平泉寺に属する「南教坊(なんきょうぼう)」だったと公式の由緒は記している。山の信仰の坊が、いつしか町場の禅寺へと姿を変えていったことになる。
【禅寺として再出発する】
延宝6年(1678)、霊潭元洪(れいたんげんこう)という僧がこの坊の住持となる。霊潭は、江戸時代に中国から伝わった新しい禅宗である黄檗宗(おうばくしゅう)の高僧の孫弟子にあたる人物だった。
元禄3年(1690)、幕府から正式に寺号の許可が下り、「円福山(えんぷくざん)国泰寺」と名乗ることになった。ここでようやく、今の寺が生まれる。
【勝山藩主・小笠原家の菩提寺として】
江戸時代、勝山を治めたのは小笠原(おがさわら)家である。国泰寺は小笠原家の菩提寺(ぼだいじ、先祖の供養を任される寺)のひとつとして庇護を受け、住職の隠居地を藩から与えられるなど、特別な扱いを受けた。町の中心に近い今の場所にあるのも、藩との関係の深さを物語っている。
【大火と再興、そして道場へ】
明治29年(1896)、勝山町を襲った大火で、国泰寺は本堂以下すべての建物を失った。十二世の源道智孝(げんどうちこう)が本堂を再興し、中興の祖と呼ばれている。今見る伽藍は、この再興以降のものである。
平成元年(1989)には坐禅堂(ざぜんどう)を含む研修道場が完成した。公式サイトは自らを「研修をするための道場です」と紹介しており、青少年の育成に力を入れている。文化財を見に行く寺ではなく、人が集まって修行する場として今も動いている寺である。
見どころ・特徴
【坐禅堂を備えた研修道場】平成元年(1989)に完成した、この寺の中心といえる建物。国泰寺は自らを観光寺院ではなく「研修をするための道場」と位置づけており、坐禅や研修の場として使われている。
【明治の大火のあとに建て直された本堂】明治29年(1896)の勝山町大火で建物はすべて焼けた。今の本堂は十二世・源道智孝が再興したもの。古い建築を期待して行く寺ではない。
【市街地に建つ藩主ゆかりの寺】勝山市役所のすぐ近く、町の中心部にある。江戸時代に勝山藩主・小笠原家の菩提寺のひとつだった名残で、山あいではなく城下町の中に位置している。
【訪ねる前に】拝観案内は公式サイトに出ていない。境内を静かに歩くぶんには問題ないと思われるが、建物の中を見たい場合や坐禅に参加したい場合は事前に電話で相談するのが確実。修行の場であることを忘れずに。
年中行事・お祭り
【元日祈祷(がんじつきとう)】例年1月1日
【節分会(せつぶんえ)】例年2月3日
【涅槃会(ねはんえ)】例年3月15日 釈迦の亡くなった日を偲ぶ法要。
【施餓鬼会(せがきえ)】例年8月10日
【報恩講(ほうおんこう)】例年10月
開催日・開催有無・時間は変更される場合があります。お出かけ前に必ず公式サイトでご確認ください。
※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。
学び・特徴
社格
黄檗宗。江戸時代は勝山藩主・小笠原家の菩提寺のひとつ。前身は白山平泉寺末の南教坊。
創建
延宝6年(1678)霊潭元洪が住持/元禄3年(1690)幕府より寺号免許
テーマ
パワースポット
基本情報
住所
福井県勝山市元町2丁目1-13
アクセス
えちぜん鉄道 勝山永平寺線「勝山駅」から徒歩約10分。JR福井駅からえちぜん鉄道で約50分、終点が勝山駅。
車は北陸自動車道 福井北ICから中部縦貫自動車道で勝山IC(約23km)、そこから一般道約3km。
駐車場10台(無料かどうかは未確認)。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
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