この寺について
天台宗の古刹。養老2年(718)の創建と伝わり、越後・三河と並ぶ日本三薬師のひとつ。
伝教大師・最澄が薬師如来を自ら彫刻安置したと伝えられ、本尊と両脇侍像は宮崎県指定有形文化財。
眼病・諸病平癒の霊験あらたかで、平安歌人・和泉式部が参篭して難病を癒したとの伝説でも知られる。
伊東マンショの幼名を記す世界唯一の物証・天井板も所蔵する。
歴史・由来
この寺を理解する鍵は、一千三百年にわたって積み重なった「縁」の厚みにある。山岳修験の霊地として始まり、最澄が再興し、戦国の権力者が守護し、幕末の政争にも巻き込まれた。
養老2年(718)8月8日、一人の高僧が釈迦岳(標高830m)の山頂に釈迦如来の石像を安置し、「金峯山・長喜院」と名づけた。これが法華嶽薬師寺の始まりとされる。
その後、唐から帰国した最澄(伝教大師)が九州を巡錫した際にこの地に立ち寄り、自ら薬師如来を彫刻して安置、「真金山・法華嶽寺」と改めた。天台宗を開いた最澄ゆかりの寺として、以後は日本三薬師のひとつに数えられるようになる。
中世には伊東家、のちに島津家の祈願寺として常時50人の僧侶が常住する大寺院として栄えた。天正3年(1575)、伊東修理亮祐青が子どもたちの名を記した天井板(金箔・龍の絵、縦横それぞれ2.8m)を奉納。これが、天正少年使節として知られる伊東マンショの幼名「虎千代麿」を示す世界唯一の物証として残っている。
薩摩藩の祈願寺となっていた幕末には思わぬ歴史の舞台にもなる。西郷隆盛と月照和尚が当寺へ「お預け」の令を受け、護送される途中で錦江湾に身を投げた事件は、この寺が政治犯の預け先でもあったことを物語る。
明治初年の廃仏毀釈で寺は焼かれ、廃寺同然となった。貴重な記録も仏具のほとんどが失われたが、地元の保存協賛会の手で昭和44年(1969)に収蔵庫が、昭和45年(1970)に拝殿が再建された。
見どころ・特徴
【日本三薬師の本尊】平安時代の作とされる木造薬師如来立像と両脇侍像(日光・月光菩薩)は宮崎県指定有形文化財。眼病・諸病平癒の霊験あらたかとして遠方からの参拝が絶えない。最澄が自ら彫刻したと伝わる薬師如来の存在が、この地の格を高め続けてきた。
【伊東マンショの幼名を記す天井板】天正3年(1575)に奉納された金箔・龍絵の大天井板(縦横各2.8m)は、天正遣欧少年使節・伊東マンショの幼名「虎千代麿」を知る世界唯一の物証として県指定文化財に指定されている。史料館で見学できる。
【和泉式部の参篭伝説と身投嶽展望台】平安歌人・和泉式部が難病の際に参篭して全快したと伝わり、琵琶を奉納したと伝えられる絵図が残る。境内周辺には「式部谷」「身投嶽」などの地名が刻まれており、伝説が地形に染み込んでいる。身投嶽展望台からは霧島連山を望む雄大な眺望が広がる。
【写経・修行体験】写経体験(500円)を不定期で開催。境内には日本庭園、グランピング、キャンプ場も隣接し、参拝と自然体験を組み合わせた半日の行程が組みやすい。
年中行事・お祭り
学び・特徴
主祭神
薬師如来
社格
日本三薬師 県指定文化財
創建
養老2年(718)
ご利益
健康・病気平癒厄除け
テーマ
山・登拝パワースポット
基本情報
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
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