
この神社について
唐沢山城の本丸跡に鎮座し、平将門の乱を鎮めた武将・藤原秀郷(俵藤太)を祀る。
明治16年(1883年)、秀郷の後裔と旧臣が中心となって創建された旧別格官幣社。
標高242メートルの山上に高さ8メートルを超える高石垣が残り、関東の中世城郭では例のない威容を今に伝える。
境内に多くの猫が暮らすことから「ねこの神社」としても親しまれている。


歴史・由来
この社を理解する鍵は、祭神が神話の神ではなく、実在した一人の武将だという点にある。
藤原秀郷は平安中期の下野国押領使で、天慶3年(940年)、関東で新皇を称した平将門の乱を平定した人物である。この功により従四位下・鎮守府将軍に任じられ、下野・武蔵の国司を兼ねた。
俵藤太(たわらのとうた)の通称で知られ、近江・三上山の大百足を退治した礼に龍神から宝物を授かったという伝説でも語り継がれてきた。授かった鎧「避来矢(ひらいし)」の名は、当社に社宝として伝わる甲冑金具の名として今も残る。
秀郷が唐沢山に城を築いたと伝えられ、その子孫である佐野氏が代々の居城とした。
標高242メートル、麓の根古屋との比高は約180メートル。関東平野を一望するこの山城は「関東七名城」の一つに数えられ、戦国期には上杉謙信の攻撃をたびたび受けながらも、佐野氏はここを拠点に北条と上杉のあいだを渡り歩いて家を保った。
城は関ヶ原の戦いの後に麓の佐野城へ移り、廃城となる。
以後およそ280年、この山は城跡として眠っていた。
明治維新後、秀郷を「朝敵を討った忠臣」と顕彰する動きが起こり、明治16年(1883年)、その後裔と旧臣らによって本丸跡に神社が創建された。
明治23年(1890年)には別格官幣社に列格している。秀郷の墓所は西へ約2キロの新吉水町にあり、当社の飛地境内となっている。
つまりこの社殿は、千年前の武将を千年後の人々が祀り直した場所であり、城の本丸がそのまま神域に変わった、全国でも珍しい成り立ちを持つ。
見どころ・特徴
【本丸の高石垣】
唐沢山城跡で最も見るべきものは、本丸南面の石垣である。高さ8メートルを超え、およそ40メートルにわたって延びる。関東の中世城郭は土を削って造る「土の城」が基本で、これほどの高石垣が残る例はほとんどない。小田原征伐の後、西国の技術によって築かれたと考えられており、佐野氏が豊臣秀吉と結んだことの証しでもある。土の城から石の城へ——関東の城が変わる瞬間が、この一面に刻まれている。
【関東平野の眺望】
標高242メートルの本丸跡からは関東平野が広がり、条件が良ければ都心の高層ビル群や富士山、日光連山まで見渡せる。将門の乱の時代からこの山が軍事上の要地であり続けた理由が、立てば一目で分かる。
【猫たち】境内には多くの猫が暮らしており、「ねこの神社」として広く知られている。参道や石垣の上で思い思いに過ごす姿は、この社を訪れる目的の一つになっている。餌やりの可否など、現地の掲示に従って接すること。
【社宝・避来矢】
藤原秀郷が龍神から授かったと伝わる鎧の名を持つ甲冑金具のほか、佐野房綱ゆかりの「龍綺の兜」(佐野市指定文化財)などを伝える。
【皇族お手植えのカエデ】
大正11年(1922年)、皇族の女性8名がカエデ8本を手植えしたと伝わる。11月中旬から下旬の紅葉は、この社の秋を彩る。
【四季の花】
3月下旬から4月上旬の桜、4月中旬から5月上旬のつつじが名高い。つつじの時期には「つつじまつり」が行われる。
【続日本100名城】
唐沢山城跡は国の史跡に指定され、続日本100名城の114番に選定されている。
神社の授与所でスタンプを押すことができる。
年中行事・お祭り
【例大祭(秋季大祭)】例年10月25日
藤原秀郷を祀るこの社の年間で最も重要な祭儀。武将を祭神とする社らしく、10月25日に近い日曜日には奉納武道大会が行われ、山上の境内に武道の気合が響く。城跡がそのまま神域である場所で、千年前の武人を偲ぶ日である。
【春季大祭】例年春
【つつじまつり】例年4月中旬〜5月上旬
境内一帯のつつじが見頃を迎える時期に合わせて行われる。桜(3月下旬〜4月上旬)から続く、唐沢山がもっとも華やぐ季節。
【大祓式】例年6月下旬
半年のあいだの穢れを祓う神事。
【歳旦祭】例年1月1日
新年を迎える祭儀。初詣の参拝者で賑わう。
開催日・開催有無・時間は変更される場合があります。お出かけ前に必ず公式サイトでご確認ください。
※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。
学び・特徴
主祭神
藤原秀郷
創建
1879年(明治12年)
ご利益
勝負運縁結び
テーマ
動物ゆかり
基本情報
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
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