タビシリ
史跡東京都指定文化財(旧跡)です。国の指定ではなく、東京都の指定です。 中央区

伝馬町牢屋敷跡

でんまちょうろうやしきあと

別名:伝馬町牢屋敷、小伝馬町牢屋敷

この史跡について
伝馬町牢屋敷跡(でんまちょうろうやしきあと)は、東京都中央区の日本橋小伝馬町(にほんばしこでんまちょう)にある、東京都指定の旧跡(きゅうせき)です。 江戸時代から明治の初めまで、ここには幕府(ばくふ)が人を牢(ろう)に入れておくための牢屋敷(ろうやしき)がありました。敷地は、今の十思公園(じっしこうえん)、十思スクエア、大安楽寺(だいあんらくじ)、身延別院(みのぶべついん)を含む一帯に広がっていました。 建物は残っていませんが、公園や展示館で、牢屋敷のようすや当時の上水(じょうすい)の遺構(いこう)にふれることができます。

歴史・由来

牢屋敷は、はじめ常盤橋御門(ときわばしごもん)の外にある本町一丁目、今の日本橋本石町二丁目のあたりにありました。幕府の地誌『御府内備考(ごふないびこう)』によると、慶長(けいちょう)年間(1596年から1615年)に小伝馬町へ移されたとされています。明暦の大火(めいれきのたいか)などの災害のあとも、同じ場所で建て直しや修理が重ねられました。 敷地の広さは2600坪(約8595平方メートル)以上で、南西の一角、約480坪には、囚獄(しゅうごく)の石出帯刀(いしでたてわき)の屋敷がありました。囚獄は牢屋奉行(ろうやぶぎょう)とも呼ばれ、入牢者(にゅうろうしゃ)の管理や刑の執行を指揮した幕臣の役職で、石出家が代々受け継ぎました。 表門は西側、裏門は東側にあり、北半分が牢、中央付近が役人の空間で、南東の角には死罪を行う場所がありました。ふだんは300人から400人ほど、多いときはその倍の人が収容されていたとされます。 この牢屋敷は、明治8年(1875)に市谷監獄(いちがやかんごく)へ移るまで続きました。のちに跡地一帯が東京都の旧跡に指定され、今は十思公園などになっています。十思公園は、関東大震災のあとに整備された「復興小公園」のひとつです。

見どころ・特徴

【十思公園(じっしこうえん)】牢屋敷の跡地の一部にあたる公園です。公園には、発掘された石垣を移して復元したものがあると、まちかど展示館の案内に紹介されています。 【吉田松陰(よしだしょういん)にまつわる石碑】公園には、吉田松陰に関する石碑があります。碑の名前は、資料によって「松陰先生終焉之地(しゅうえんのち)」「吉田松陰終焉の地」などと書かれ、辞世(じせい)の句を刻んだ石碑として紹介する資料もあります。現地で碑に刻まれた文字を確かめてみましょう。 【小伝馬町牢屋敷展示館】十思スクエア別館の中にある展示館です。江戸時代の牢屋敷の内部模型があり、獄舎(ごくしゃ)が身分によって分けられていたことや、取り調べをした場所などの位置がわかると案内されています。 【神田上水(かんだじょうすい)の遺構】2012年に十思スクエア別館を建てるとき、神田上水の木樋(もくひ)・埋桝(うめます)・井戸などの遺構が出土しました。中央区の解説では、一部は現地で移築復元が図られたとされています。展示館では、牢屋敷にあった上水の井戸跡と木樋を、ガラス越しに見学できると案内されています。 【周辺を歩く】十思公園の中には、都指定文化財の銅鐘「石町時の鐘(こくちょうときのかね)」が保存されています。牢屋敷の跡地にあたる大安楽寺と身延別院も、同じ一帯にあります。
学び・特徴
指定・選定
東京都指定文化財(旧跡)です。国の指定ではなく、東京都の指定です。
成立・年代
慶長年間(1596年から1615年)に小伝馬町へ移され、明治8年(1875)に市谷監獄へ移るまで使われました。
基本情報
住所
東京都中央区日本橋小伝馬町3・4・5(十思公園は5番2号、十思スクエア別館は5番19号)
見学時間
小伝馬町牢屋敷展示館は、9時から20時まで、年末年始などを除く毎日開館と案内されています。十思公園など、そのほかの場所の見学時間は、お出かけ前に直接お問い合わせください。

⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。

アクセス
東京メトロ日比谷線の小伝馬町駅が最寄りです。小伝馬町牢屋敷展示館の案内では、4番出口から徒歩3分とされています。
記念メダル

スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。

訪問記録

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