この寺について
墨田区の北のはし、隅田川のほとりにある天台宗(てんだいしゅう)の寺である。
山号は梅柳山(ばいりゅうざん)。
梅若丸(うめわかまる)という少年の悲しい伝説が残る寺として知られ、境内には梅若丸をしのぶ梅若塚(うめわかづか)がある。
能の演目である謡曲(ようきょく)「隅田川」の舞台として語られてきた土地でもある。
歴史・由来
【梅若丸の伝説から始まる寺】
この寺の歴史を語るとき、最初に出てくるのは梅若丸という少年の物語である。
伝説によると、梅若丸は京都の貴族の子であった。
12歳のとき、人買い(ひとかい)につれ去られ、東国へ向かう旅の途中、隅田川のほとりで亡くなったと伝わる。
通りかかった高僧(こうそう)が少年をあわれみ、塚(つか)を築いて柳を植えたという。
それから1年後、わが子をさがして旅をしてきた母が、その塚の前で念仏をとなえると、梅若丸の姿があらわれたと語られている。
この母子の物語は、室町時代に観世元雅(かんぜもとまさ)がつくったとされる謡曲「隅田川」によって広く知られるようになった。
母のその後については、出家して妙亀尼(みょうきに)になったという話と、川に身を投げたという話の両方が伝わっている。
台東区橋場(はしば)にある妙亀塚(みょうきづか)は、この母にちなむ塚と伝わる。
【寺のあゆみ】
寺の伝えでは、梅若丸の供養(くよう)のため、貞元元年(976)に忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)が念仏堂を建てたのが始まりとされる。
のちに梅柳山の山号をもつ寺となり、かつては隅田院、梅若寺などの名でも呼ばれたという。
源頼朝(みなもとのよりとも)がこの地をおとずれたという話や、太田道灌(おおたどうかん)が塚を修理したという話も伝わっている。
江戸時代には、隅田川御殿(すみだがわごてん)という建物もあったと紹介されている。
明治時代には寺が再興(さいこう)されたとされる。
昭和51年(1976)には、隅田川沿いの白鬚東(しらひげひがし)地区に、災害のときに避難できる防災の拠点をつくる計画がすすめられた。
これにともない、梅若塚と木母寺は現在の場所へ移された。
見どころ・特徴
【梅若塚(うめわかづか)】
境内にある、梅若丸をしのぶ塚である。
伝説の少年をいたむ場所であり、この寺の中心ともいえる。
【梅若堂(うめわかどう)】
梅若丸ゆかりのお堂である。
塚とあわせて手を合わせたい。
【梅若伝説に出会う寺】
謡曲「隅田川」の舞台として語られてきた土地である。
物語を読んでから訪ねると、目の前の隅田川の流れが、少しちがって見えてくる。
【周辺を歩く】
すぐ南には隅田川神社がある。
地図の上では200メートルほどの距離とされる。
川ぞいの2つの社寺をつづけて歩くと、このあたりに水と信仰が深く結びついてきたことが感じられる。
年中行事・お祭り
【梅若忌(うめわかき)】例年4月15日
梅若丸をしのぶ行事として知られる。
梅若丸の亡くなった日が、旧暦の3月15日と伝わることにちなむとされる。
開催日・開催有無・時間は変更される場合があります。お出かけ前に必ず公式サイトでご確認ください。
※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。
作品ゆかり
【謡曲「隅田川」】
室町時代に観世元雅(かんぜもとまさ)がつくったとされる能の演目である。
わが子をさがして東国まで来た母が、隅田川のほとりで梅若丸の塚にたどりつく物語として知られる。
学び・特徴
宗派・寺格
天台宗の寺院。山号は梅柳山。
創建
寺の伝えでは、貞元元年(976)に忠円阿闍梨が念仏堂を建てたのが始まりとされる。
昭和51年(1976)に現在の場所へ移った。
テーマ
歴史文学ゆかり
基本情報
住所
東京都墨田区堤通2-16-1
参拝時間
参拝時間は、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵(かねがふち)駅から徒歩約7分。
南隣の隅田川神社へも歩いて行ける。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
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