この寺について
通称「黒谷さん(くろだにさん)」「黒谷金戒光明寺」。浄土宗の大本山。法然上人二十五霊場・第24番札所。承安5年(1175)、法然上人43歳の時、当地(=比叡山黒谷)に草庵を結び、浄土宗を開いた稀有な「浄土宗発祥の地」。「会津藩本陣」=幕末、京都守護職・松平容保(=会津藩主、新選組の上司)が、文久2年(1862)から慶応3年(1867)まで当寺を会津藩本陣として使用した稀有な歴史的聖地。「アフロ仏像(=五劫思惟阿弥陀如来像)」=五劫の間思惟して頭髪が伸び切った稀有な造形の阿弥陀如来像、SNS時代の人気スポット。
歴史・由来
この寺を理解する鍵は、一人の僧が山を下りたことと、七百年近く後にこの地へ千人もの武士が駐屯したことの、二つの出来事にある。
承安5年(1175)、比叡山で修行していた法然上人(ほうねんしょうにん)は、43歳のとき山を下り、この地・黒谷に小さな草庵を結んだ。念仏を唱えれば誰もが救われるという教え、浄土宗はここから始まったとされ、金戒光明寺は「浄土宗発祥の地」と呼ばれている。山号の紫雲山(しうんざん)は、法然が腰かけた石から紫の雲が立ちのぼり、あたりを照らしたという言い伝えに由来する。
境内の三重塔「文殊塔(もんじゅとう)」は寛永10年(1633)、徳川二代将軍・秀忠の供養のために建てられた。安置されている文殊菩薩像は中山文殊(なかやまもんじゅ)と呼ばれ、江戸時代の書物には奈良の安倍文殊・天橋立の切戸文殊と並ぶ「本朝三文殊」の一つと記されている。応仁の乱で廃寺となった中山宝幢寺(なかやまほうどうじ)から移されたと伝わる。
幕末になると、この寺は思いもよらない役割を担うことになる。文久2年(1862)、京都守護職に任じられた会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は、約千人の藩兵を率いて上洛し、黒谷を本陣とした。御所まで約2キロという立地、寺域の広さ、城構えのような防御性という三つの理由から選ばれたという。のちに新選組の母体となる浪士組も、ここで容保に拝謁している。文久2年から慶応3年(1867)にかけて、会津藩士237人がこの地で亡くなり、境内の墓地に葬られた。今も西雲院では、彼らを慰霊する法要が営まれている。
見どころ・特徴
【文殊塔(三重塔)】
重要文化財。寛永10年(1633)建立で、日本三文殊の一つに数えられる中山文殊を安置する。
【アフロ仏像(五劫思惟阿弥陀仏)】
江戸時代中頃の作と伝わる石仏。「五劫」という気の遠くなるほど長い時間、思惟を続けたため髪が伸びきったという姿から、近年SNSで話題になっている。
【吉備観音】
重要文化財。洛陽三十三所観音霊場第六番札所の本尊で、遣唐使・吉備真備ゆかりの観音像と伝わる。
【会津藩士のお墓】
幕末に本陣として使われた歴史を今に伝える、会津藩士たちの墓地がある。
【紅葉と特別公開】
ふだんは非公開の山門・大方丈・回遊式庭園「紫雲の庭」が、秋の特別公開期間だけ拝観できる。紅葉の名所としても知られる。
年中行事・お祭り
【秋の特別拝観】例年11月中旬〜12月上旬ごろ
山門・大方丈・紫雲の庭など、ふだんは非公開の場所が特別に公開される。夜間のライトアップが行われることもある。
【会津藩物故者慰霊法要】例年6月ごろ
西雲院にて、幕末に会津藩士として亡くなった人々を偲ぶ法要が営まれる。
※開催日・開催有無・時間は変更される場合があります。お出かけ前に必ず公式サイトでご確認ください。
※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。
学び・特徴
主祭神
阿弥陀如来
社格
浄土宗大本山、山号は紫雲山(しうんざん)。法然上人二十五霊場第24番、洛陽三十三所観音霊場第6番(吉備観音)。
創建
承安5年(1175)、法然上人が43歳のとき、比叡山を下りてこの地に草庵を結んだことに始まる。
この場所を巡る軸
霊場・巡礼
基本情報
住所
京都府京都市左京区黒谷町121
参拝時間
境内は参拝自由。御影堂の拝観・御朱印の受付は9時から16時まで。山門・庭園などは通常非公開で、秋の特別公開期間のみ拝観できる。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
市バス「岡崎道」下車、徒歩約10分(32系統・203系統・204系統)。市バス「東天王町」下車、徒歩約15分(5系統)。駐車場は普通車73台分あり(大型バスは駐車不可)。
公式サイト
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
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