
この神社について
日本橋堀留町に鎮座する稲荷社。
約千年前、藤原秀郷が平将門追討の戦勝を祈願した地と伝えられ、文正元年(1466年)には太田道灌が雨乞いを祈願し、のちに伏見稲荷より五社稲荷大神を勧請した。
江戸時代には烏森・柳森とともに「江戸三森」と称され、幕府公認の富くじ興行の地として賑わった。
境内の富塚は今も宝くじ当選を願う人が絶えない。
日本橋七福神の恵比寿神。
歴史・由来
オフィスビルに囲まれた小さな社だが、たどると平安の武将から江戸の庶民、そして現代の宝くじ売り場までが一本の線でつながる。
創建は約千年前と伝わる。
天慶の頃、平将門の乱を鎮めるべく東下した藤原秀郷が、この地で戦勝を祈願したという。乱を平定した秀郷は礼として白銀の狐像を奉納したと伝えられる。栃木・唐沢山に城を築き、後に唐沢山神社の祭神として祀られる、あの秀郷である。
時代は下って文正元年(1466年)、江戸城を築いた太田道灌がこの社で雨乞いを祈願した。
その後、山城国の稲荷山(伏見稲荷)より五社稲荷大神を勧請し、社の性格が定まる。祭神は倉稲魂大神・素盞嗚大神・大市姫大神・大己貴大神・四大神の五柱で、これを五社稲荷大神と奉称する。
江戸に入ると、新橋の烏森神社、神田の柳森神社とともに「江戸三森」と並び称された。
そしてこの社の名を庶民に知らしめたのが、富くじである。江戸時代、寺社は社殿の修復費用を捻出するため幕府の公認を得て富くじ興行を行った。
椙森神社の富くじはとりわけ盛んで、抽選日には堀留一帯が人で埋まったという。
大正12年(1923年)の関東大震災で社殿は全焼した。
しかし昭和6年(1931年)、当時としては先進的な耐震構造の鉄筋コンクリート造で再建される。
この戦前の鉄筋造社殿が、東京大空襲を越えて今も建っている。震災に焼かれた社が、震災に耐える姿で建て直され、そのまま現存している——都内でも数少ない例である。
見どころ・特徴
【富塚】この社を訪れる最大の目的地。江戸時代の富くじ興行を記念して大正8年(1919年)に建てられた塚で、関東大震災で被災した後、戦後に再建された。現在は宝くじの当選を願う人が全国から訪れ、抽選日が近づくと参拝者が増える。「富札・富塚の碑」は中央区民文化財に指定されている。江戸の庶民が夢を買った場所が、そのまま現代の夢の場所として続いている。
【昭和6年の鉄筋コンクリート社殿】関東大震災で全焼した後、昭和6年(1931年)に耐震構造の鉄筋造で再建された社殿。戦前に建てられた鉄筋造の社殿が現存する例は都内でも珍しい。木造が当たり前だった時代に、あえてコンクリートを選んだ判断そのものが、震災の記憶の証しである。
【日本橋七福神の恵比寿神】相殿に恵比寿大神を祀り、日本橋七福神めぐりの一社を担う。正月の松の内には七福神を巡る参拝者で賑わう。日本橋七福神は都内の七福神めぐりのなかでも巡拝距離が短く、半日で歩ける。
【江戸三森のひとつ】新橋の烏森神社、神田の柳森神社とあわせて「江戸三森」。いずれも稲荷を祀り、江戸の町人に親しまれた社である。三社を巡ると、江戸の都市の広がりが体感できる。
【藤原秀郷ゆかりの地】平将門を討った秀郷が戦勝を祈願したと伝わる。秀郷を祭神として祀る栃木の唐沢山神社とあわせて訪ねると、一人の武将が関東に残した足跡がつながる。
年中行事・お祭り
【例大祭】例年5月15日・16日
五社稲荷大神を祀る当社の年間で最も重要な祭儀。3年に一度の式年祭の年には、5月16日に近い木・金・土曜日に大々的に執り行われ、神輿が日本橋堀留の町を巡行する。オフィス街が祭りの町に戻る数日間。
【日本橋七福神めぐり】例年1月1日〜7日
正月の松の内、日本橋界隈の七社を巡る七福神めぐり。当社は恵比寿神を担う。巡拝距離が短く半日で歩けるため、都心の正月の風物詩として親しまれている。
【富塚祭】
江戸の富くじ興行にちなむ神事。宝くじの当選を願う参拝者が集まる。
開催日・開催有無・時間は変更される場合があります。お出かけ前に必ず神社の公式情報でご確認ください。
※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。
この場所を巡る軸
霊場・巡礼
基本情報
住所
東京都中央区日本橋堀留町1-10-2
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
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