
Higa4, CC0, via Wikimedia Commons
この神社について
日本橋浜町に鎮座する稲荷社。
安政6年(1859年)、笠間藩八代藩主・牧野貞直が江戸下屋敷内に、常陸国笠間の本社から御分霊を勧請したのが始まり。
祭神は宇迦之御魂神。
大名屋敷の邸内社でありながら、初午の日には門を開いて日本橋の町人の参拝を許したと伝わる。
通称は「紋三郎稲荷」。日本橋七福神の寿老神を担う。
歴史・由来
日本橋の神社を続けて歩くと、同じ形が繰り返し現れる。
参勤交代で江戸に置かれた藩邸、その中に祀られた国元の神、そして明治に藩邸が消えたあと町に残った社。この社も、その系譜にある。
安政6年(1859年)、常陸国笠間藩の八代藩主・牧野貞直が、江戸の下屋敷内に笠間稲荷神社の御分霊を勧請した。
本社は茨城県笠間市に鎮座し、日本三大稲荷の一つに数えられることもある古社である。
祭神は宇迦之御魂神。稲の実りを司る神であり、のちに商売繁盛の神としても広く信仰された。
注目すべきは、この社が藩邸の中にありながら閉じていなかったことである。初午の日には門戸を開き、日本橋界隈の人々の参拝を許したと伝わる。稲荷信仰にとって初午は最も重要な日であり、その日だけは大名屋敷の塀が意味を失った。
同じことが日本橋の他の社でも起きている。久留米藩有馬家の水天宮は毎月五日に屋敷を開き、「情け有馬の水天宮」と謳われた。佐倉藩堀田家の茶ノ木神社も、邸内社から町の信仰へと開かれていった。大名が国元の神を江戸に持ち込み、それが江戸の町人の神になっていく——参勤交代という制度が、江戸の神社の地図をつくったことがよく分かる。
通称の「紋三郎稲荷」は、笠間稲荷の信仰を広めることに尽力した門三郎という人物にちなむとされる。井上家が笠間藩主であった頃の縁者と伝えられるが、由来には諸説ある。江戸で「紋三郎稲荷」といえばこの社を指すほど、その名は定着した。
明治維新で藩邸が失われた後も、社はこの地に残り、日本橋浜町の鎮守として今日まで続いている。
見どころ・特徴
【神狐像の一画】境内には多くの神狐像が集められた場所がある。稲荷社の神使である狐が並ぶ光景は、小さな境内にあって強い印象を残す。奉納された年代も表情もさまざまで、この社に寄せられてきた信仰の層が見てとれる。
【朱色の社殿と連なる鳥居】ビル街のなかに朱が鮮やかに立つ。複数の鳥居をくぐって進む構成は、規模は小さいながら稲荷社らしい参道の感覚をきちんと持っている。
【日本橋七福神の寿老神】寿老神は長寿・健康を司る。七福神のなかでは福禄寿と並んで道教の神仙に由来するとされ、鹿を伴う姿で描かれることが多い。
【本社とのつながり】本社は茨城県笠間市の笠間稲荷神社。菊まつりで知られ、日本三大稲荷の一つに数えられることもある。東京別社を訪れてから本社へ足を伸ばすと、江戸と常陸を結んだ大名家の縁をたどることになる。
【大名屋敷から町の神へ】藩邸の邸内社が、初午の日の開放を経て町の鎮守になった。水天宮(久留米藩有馬家)、茶ノ木神社(佐倉藩堀田家)と同じ道筋をたどっており、日本橋を歩くとこの構図が繰り返し現れる。
【浜町という土地】明治座がほど近く、かつては芝居と花街の気配が濃い一帯だった。隅田川にも近く、人形町とはまた違った下町の空気がある。
年中行事・お祭り
【例祭】例年11月15日
笠間稲荷神社東京別社の年間で最も重要な祭儀。
【日本橋七福神めぐり】例年1月1日〜7日
正月の松の内、日本橋界隈の七社を巡る七福神めぐり。当社は寿老神を担う。巡拝距離が短く半日で歩けるため、都心の正月の風物詩として親しまれている。
開催日・開催有無・時間は変更される場合があります。お出かけ前に必ず現地または公式の案内でご確認ください。
※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。
学び・特徴
創建
安政6年(1859年)
この場所を巡る軸
霊場・巡礼
基本情報
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
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