
Higa4, CC0, via Wikimedia Commons
この神社について
日本橋人形町に鎮座。祭神は宇賀之美多摩命と武甕槌命。
慶長元年(1596年)には既に鎮座していたと伝わり、元和3年(1617年)に幕府公認の遊郭・葭原(のちの吉原)が置かれると、その総鎮守となった。
明暦の大火で吉原が浅草へ移った後は、跡地の四町の氏神として続く。
延宝3年(1675年)の社殿修復で本殿から末広扇が見つかったことが社名の由来。
日本橋七福神の毘沙門天。
歴史・由来
静かな人形町の路地に建つこの社が、かつて江戸最大の遊郭の鎮守だったと言われても、すぐには結びつかない。
慶長元年(1596年)にはすでにこの地に鎮座していたと伝わる。事態が動くのは元和3年(1617年)、幕府が江戸で初めて公認の遊郭を認めたときである。
葭(よし)の茂る湿地を埋め立てて造られたことから「葭原」と呼ばれ、のちに「吉原」の字が当てられた。当社はその総鎮守となる。
しかし明暦3年(1657年)、江戸の三分の二を焼いたとされる明暦の大火がすべてを変えた。
吉原は浅草の日本堤へ移転を命じられ、この地は「元吉原」と呼ばれるようになる。
跡地は難波町・住吉町・高砂町・新泉町の四町に生まれ変わり、当社はその氏神として町とともに残った。遊郭は去り、社だけがこの場所にとどまった。
社名が決まったのは、その後である。延宝3年(1675年)、社殿を修復した際に本殿から中啓が発見された。中啓とは儀式に用いる扇で、閉じていても先が広がっている。まさに末広がりの形である。氏子たちはこれを瑞祥と受け止め、社号を「末廣神社」と改めた。以後、勝運と災難除けの神として崇敬を集めるようになる。
名前の由来が「掃除をしていたら縁起物が出てきたから」という、いかにも江戸の町人らしい経緯なのが面白い。神託でも由緒書でもなく、修復現場の偶然が社名になった。
なお、この社が火事によって町の姿を変えられたのに対し、同じ日本橋七福神の茶ノ木神社は「長年火事が起きなかったこと」で火伏せの神となった。江戸の火事の記憶が、隣り合う二社に正反対のかたちで刻まれている。
見どころ・特徴
【末広扇の由来】延宝3年(1675年)の社殿修復中、本殿から中啓(末廣扇)が発見された。中啓は閉じた状態でも先が開く形の扇で、末広がりの象徴。これを吉兆として社名が改められた。開運・勝運の信仰の出発点がここにある。
【日本橋七福神の毘沙門天】毘沙門天は四天王の一尊で、武神として勝負・勝運を司る。末広扇の由来と毘沙門天の性格が重なり、勝運の社として参拝されている。専用の御朱印も授与されている。
【御神木の椎の木】参道に立つ立派な椎の木。ビルに囲まれた小さな境内にあって、この木が空間に落ち着きを与えている。
【龍の手水舎】龍の装飾が施された手水舎。小さな社ながら意匠が凝っている。
【「徳」の石】「徳」と刻まれた石があり、願掛けの対象となっている。
【火消し「は組」の碑】江戸の町火消しの碑が残る。明暦の大火で町の姿が変わったこの土地に、火と戦った人々の記録が置かれているのは示唆的である。
【養母世稲荷】境内社。
【元吉原の記憶】この一帯が江戸初期の吉原だったことを示す痕跡は、今ではほとんど残っていない。当社が「元吉原四カ町の氏神」であり続けたことが、その記憶をつないでいる数少ない手がかりになっている。
年中行事・お祭り
【例大祭】例年5月22日
末廣神社の年間で最も重要な祭儀。
【日本橋七福神めぐり】例年1月1日〜7日
正月の松の内、日本橋界隈の七社を巡る七福神めぐり。当社は毘沙門天を担う。巡拝距離が短く半日で歩けるため、都心の正月の風物詩として親しまれている。
開催日・開催有無・時間は変更される場合があります。お出かけ前に必ず現地または公式の案内でご確認ください。
※ 開催日・開催有無は必ず公式サイトでご確認ください。
学び・特徴
創建
慶長元年(1596年)以前
この場所を巡る軸
霊場・巡礼
基本情報
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
参拝記録
記録を確認中...