この城について
島原半島の南、有明海に突き出た丘の上に築かれた城の跡。寛永(かんえい)14年(1637年)に起きた島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき、島原の乱)で、天草四郎(あまくさしろう)を総大将とする一揆軍が立てこもった最後の舞台です。この一揆は、キリスト教が禁じられた中で信仰を守り続けた「潜伏(せんぷく)キリシタン」が生まれるきっかけになりました。2018年に世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産となりました。国指定史跡、続日本100名城(188番)。
歴史・由来
原城を理解する鍵は、この城が「キリシタン大名の城」として生まれ、「キリシタンが信仰を隠して生きる時代」の入り口になったことにあります。
【キリシタン大名の城】
原城は、キリシタン大名として知られる有馬晴信(ありまはるのぶ)が、慶長(けいちょう)3年から9年(1598年から1604年)にかけて築いた城です(明応〈めいおう〉5年〈1496年〉に有馬貴純〈ありまたかずみ〉が築いたとする説もあります)。その後、領主となった松倉(まつくら)氏が新しく島原城を築いたため、原城は使われなくなりました。
【一揆勢の籠城】
寛永14年(1637年)、松倉氏の厳しい支配と飢饉(ききん)をきっかけに、島原半島南部と天草地方の人びとが立ち上がりました。益田四郎(ますだしろう、天草四郎)を総大将とした一揆勢は、使われなくなっていた原城跡に立てこもります。その数は2万数千人(3万7千人とする説もあります)にのぼりました。江戸幕府は12万人を超える兵で城を囲み、約4か月の攻防ののち、寛永15年(1638年)2月末の総攻撃で城は落ち、一揆勢のほとんどが命を落としました。
【潜伏キリシタンの時代へ】
この一揆は幕府に大きな衝撃を与えました。幕府は宣教師が入ってくるおそれのあるポルトガル船の来航を禁じ、その後2世紀以上にわたって海外との交流を厳しく制限します。宣教師がいなくなった日本で、キリシタンたちは自分たちだけで信仰をひそかに守り続けることになりました。
【発掘が語るもの】
発掘調査では、石垣の遺構とともに多くの人骨や、メダイ(信仰のメダル)、鉄砲玉を溶かして作った十字架などが見つかっています。籠城した人びとの信仰と暮らしを今に伝える、大切な遺跡です。昭和13年(1938年)に国の史跡に指定され、2018年には世界文化遺産の構成資産となりました。
見どころ・特徴
【本丸と石垣】
海に面した丘の上に本丸跡が広がり、石垣や枡形(ますがた、敵の勢いを弱める四角い区画)、空堀(からぼり)などの遺構が残ります。本丸からは有明海を一望できます。
【天草四郎像と墓碑】
本丸跡には天草四郎の像が立ち、近くには天草四郎の墓碑も残ります。
【ほねかみ地蔵】
明和(めいわ)3年(1766年)、敵味方の区別なく亡くなった人びとを供養するために建てられた地蔵です。
【有馬キリシタン遺産記念館】
原城跡から出土した遺物を展示しています。原城を歩く前に立ち寄ると、一揆や潜伏キリシタンの歴史がよくわかります。続日本100名城のスタンプもここに置かれています。
【原城跡総合案内所】
本丸の近くにあり、続日本100名城のスタンプが置かれています(9時30分から16時30分まで)。
学び・特徴
指定・選定
国指定史跡(昭和13年指定)・続日本100名城188番・世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」構成資産
築城
慶長3年から9年(1598年から1604年)、有馬晴信が築城(明応5年〈1496年〉、有馬貴純の築城とする説もある)。元和2年(1616年)ごろに廃城
テーマ
続日本100名城国史跡霊場・巡礼
基本情報
住所
長崎県南島原市南有馬町乙
見学時間
原城跡総合案内所は9時30分から16時30分まで。有馬キリシタン遺産記念館は9時から18時までで、木曜日が休館日です(年末年始の休みあり)。開館時間は変わることがあるため、お出かけ前に南島原ひまわり観光協会などでご確認ください。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
【バス】JR長崎本線 諫早駅前から島鉄バスで口之津(くちのつ)まで約1時間30分、乗り換えて「原城前」まで約15分から20分、下車して徒歩約10分から13分
【飛行機】長崎空港から諫早駅前までバスで約30分
【駐車場】国道251号沿いと、原城温泉真砂(まさご)付近にあり
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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