この城について
山口市街の北西にそびえる鴻ノ峰(こうのみね、標高338メートル)の山頂にある山城の跡です。大内氏最後の当主・大内義長(おおうちよしなが)が毛利氏の攻撃に備えて築きはじめ、大内氏が滅んだ後は毛利氏が完成させて山口支配の拠点にしました。国の史跡「大内氏遺跡」の一部で、ふもとの大内氏館とあわせて続日本100名城(第174番)に選ばれています。
歴史・由来
【二つの家の城】
高嶺城を理解する鍵は、大内氏が築きはじめ、滅ぼした側の毛利氏が完成させた城だということです。
【大内氏最後の備え】
室町時代に山口を中心に栄えた大内氏は、戦国時代に力を失っていきました。最後の当主・大内義長は、弘治2年(1556)、勢いを増す毛利元就(もうりもとなり)の軍に備えて、ふもとの館を見おろす鴻ノ峰に城を築きはじめました。しかし毛利軍の進みは速く、城は間に合いませんでした。義長は山口を離れて長門の長福寺(今の功山寺〈こうざんじ〉)で自害し、大内氏は滅びました。
【毛利氏の城へ】
大内氏が滅んだ後、毛利氏は築城を再開して城を完成させ、城番を置いて山口を治める拠点にしました。永禄12年(1569)に大内氏の再興をめざす大内輝弘(おおうちてるひろ)が山口に攻め込んだときも、城は落ちませんでした。このとき、城番の市川経好(いちかわつねよし)が九州に出陣していたため、その妻が城を守りぬいたと伝えられています。
【城の終わり】
元和元年(1615)、江戸幕府の一国一城令によって高嶺城は廃城となりました。実際に取り壊されたのは寛永15年(1638)ともいわれます。昭和34年(1959)、ふもとの大内氏館跡などとともに、国の史跡「大内氏遺跡」に指定されました。
見どころ・特徴
【石垣と郭の跡】山頂の本丸を中心に、石垣や井戸、郭(くるわ)の跡が残っています。中世の終わりから近世はじめにかけての瓦も見つかっていて、毛利氏の時代に整えられた城の姿を伝えています。
【ふもとの大内氏館跡とあわせて】高嶺城は、ふもとの大内氏館跡とセットで続日本100名城に選ばれています。館で大内氏の栄えた時代を、山の上で大内氏の最後と毛利氏の時代を感じられます。
【訪ねかた】登山道は山口大神宮から始まります。道は険しく、石段がとぎれているところもあるので、登山の装備で出かけましょう。
学び・特徴
社格
国史跡「大内氏遺跡 附 凌雲寺跡」の一部・続日本100名城第174番(大内氏館・高嶺城)
創建
弘治2年(1556)大内義長が築城開始、のち毛利氏が完成。元和元年(1615)廃城
テーマ
続日本100名城山城国史跡
基本情報
住所
山口県山口市上宇野令
アクセス
JR山口線「山口」駅から車で約10分。中国自動車道の小郡インターチェンジから車で約20分。登山道は山口大神宮から始まります。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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