この城について
奈良県宇陀市大宇陀にある山城の跡で、国の史跡、続日本100名城(第166番)に選ばれています。14世紀半ばに秋山氏が築き、豊臣政権の時代には大和郡山城・高取城と並ぶ大和支配の重要な拠点になりました。元和元年(1615)に壊されましたが、発掘調査で石垣で固めた本丸の姿が明らかになっています。ふもとには、国の重要伝統的建造物群保存地区「宇陀市松山」の城下町が広がります。
歴史・由来
【わずか30年で消えた石垣の城】
宇陀松山城を理解する鍵は、豊臣政権のもとで石垣の城に生まれ変わり、そのわずか30年ほど後に壊されてしまったことです。
【秋山氏の山城】
城のはじまりは14世紀半ば、南北朝時代です。宇陀三将(うださんしょう)と呼ばれた有力な武士の一つ、秋山氏が、標高473メートルの山の上に城を築き、本拠地としました。
【豊臣政権の拠点へ】
天正13年(1585)、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が大和に入ると、城には豊臣方の大名が置かれ、大和郡山城・高取城と並ぶ大和支配の重要な拠点になりました。多賀秀種(たがひでたね)の時代には大がかりな改修が行われ、城の周りには城下町がつくられていきました。関ヶ原の戦いの後に城主となった福島高晴は、城の名を「松山城」と改めました。
【大坂の陣と破城】
ところが元和元年(1615)、福島高晴は大坂夏の陣で豊臣方に通じた疑いをかけられ、領地を取り上げられてしまいます(改易〈かいえき〉)。城は壊されました(破城〈はじょう〉)。その後、宇陀は織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)の家系が約80年にわたって治めましたが、城が再び建てられることはありませんでした。
【よみがえる城の姿】
平成7年(1995)から行われた発掘調査で、本丸とその周りが石垣で築かれていたことがわかり、平成18年(2006)に国の史跡に指定されました。出土した鬼瓦から城主の移り変わりもわかってきています。城は消えても、秋山氏の時代に始まった城下町は商人の町として栄え、今も「宇陀市松山」の町並みとして残っています。
見どころ・特徴
【本丸と石垣】発掘調査で、本丸とその周りが石垣で固められていたことがわかりました。今も部分的に石垣が残っています。
【天守台からの眺め】天守台からは、南に吉野・大峰の山々、北に「大和富士」と呼ばれる額井岳(ぬかいだけ)を望めます。ふもとの城下町も一望でき、平成23年(2011)に奈良県景観資産に登録されました。
【城下町・宇陀市松山】ふもとの城下町は、平成18年(2006)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた商家町です。江戸時代の終わりから昭和のはじめに建てられた町家が、宇陀川と山並みにとけこむように並んでいます。
【訪ねかた】登り口は、宇陀市松山地区まちかどラボからの道と、春日門跡からの道の2つあり、どちらも本丸まで徒歩約20分です。春日門跡からの道は舗装されていないので、歩きやすい靴で出かけましょう。城跡には駐車場がないため、車の場合は道の駅「宇陀路大宇陀」を利用してください。
学び・特徴
社格
国史跡(平成18年指定)・続日本100名城第166番
創建
14世紀半ば、秋山氏の築城。元和元年(1615)破城
テーマ
続日本100名城山城国史跡
基本情報
住所
奈良県宇陀市大宇陀春日
見学時間
続日本100名城のスタンプは、宇陀市松山地区まちかどラボ(9時から17時まで、12月29日から1月4日は休館)と道の駅「宇陀路大宇陀」に置かれています。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
近鉄大阪線「榛原」駅から奈良交通バスの大宇陀行きに乗り、終点の「大宇陀」で下車。城跡には駐車場がないため、車の場合は道の駅「宇陀路大宇陀」の駐車場を利用します。登り口(まちかどラボ付近、または春日門跡)から本丸まで徒歩約20分。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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