この城について
武田勝頼が天正9年(1581)、本拠を躑躅ヶ崎館(つつじがさきかん、武田氏館)から新府に移すために築城した城。真田昌幸(さなだまさゆき)が作事奉行(さくじぶぎょう、工事の責任者)を務めたとされる。だが完成から1年と経たず、天正10年(1582)に織田・徳川連合軍の侵攻を受け、勝頼は自ら城に火を放って退去し、武田氏は滅亡した。続日本100名城の一つ。
歴史・由来
新府城を理解する鍵は、「武田家が最後にかけた城」という点にある。
武田信玄の死後、武田勝頼は本拠を甲府の躑躅ヶ崎館から、より防御に優れた新府(にっぷ)の地へ移すことを決め、天正9年(1581)に築城を始めた。真田昌幸が作事奉行を務め、短期間での完成を目指したとされる。同年12月24日には躑躅ヶ崎館から新府城への移転が行われた。
しかし城はまだ未完成だった。天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍による甲州侵攻(甲州征伐)を前に、勝頼は3月3日に自ら新府城に火を放って退去。その後、小山田信茂の離反などもあり、3月11日、甲斐国田野(現在の山梨県甲州市大和町)において、夫人(北条夫人)・息子の信勝とともに自害した。これにより武田氏は滅亡した。
新府城はわずか1年ほどしか使われなかったが、本丸・二の丸・三の丸・大手桝形・丸馬出(まるうまだし)・三日月堀など、戦国末期から近世城郭への過渡期を示す遺構が良好に残る。勝頼が退去した後は、徳川家康が本陣として利用したとも伝わる。現在、本丸には藤武神社(とうぶじんじゃ)が鎮座している。
昭和48年(1973)7月21日、国の史跡に指定された。
見どころ・特徴
【本丸・二の丸・三の丸の遺構】大手桝形・丸馬出・三日月堀など、戦国末期の城づくりの特徴が良好に残る。七里岩(しちりいわ)という台地の上に築かれており、見晴らしもよい。
【藤武神社】現在、本丸には藤武神社が鎮座している。
【新府桃源郷】城跡周辺は桃の産地で、4月上旬から中旬にかけて桃の花が一面に咲く「新府桃源郷」として知られる。
【景徳院とあわせて訪ねる】武田勝頼・北条夫人・息子信勝が最期を迎えた田野の地には、菩提寺である景徳院(甲州市大和町)があり、3人の墓・供養塔がある。新府城から車で1時間弱かかる別の場所だが、新府城とあわせて訪ねることで、武田氏滅亡までの道のりをたどることができる。
学び・特徴
指定・選定
国指定史跡(昭和48年〈1973〉7月21日指定)。続日本100名城127番。
築城
天正9年(1581年)
基本情報
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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