この城について
利根川と赤谷川(あかやがわ)が合わさるあたり、三方を崖に囲まれた細長い台地に築かれた山城の跡。真田昌幸(さなだまさゆき)が沼田城を攻めるための前線基地として整えた城で、天正17年(1589年)にここが北条方に奪われた「名胡桃城事件」が、豊臣秀吉による小田原攻めの口実となった。小さな城が戦国時代の終わりを決めた場所として知られ、続日本100名城の115番に選ばれている。
歴史・由来
この城を読み解く鍵は、大きさではなく、置かれた場所にある。
始まりは明応元年(1492年)、沼田氏の一族がこの地に名胡桃館(なぐるみやかた)を構えたことだと伝わる。城が歴史の表に出てくるのは、それから90年近くあとのことだった。天正6年(1578年)に上杉謙信が急に亡くなると、関東の力関係が崩れる。その隙をついて真田昌幸が名胡桃館を攻め取り、天正7年(1579年)ごろ、その隣に新しく城を築いた。目的ははっきりしている。利根川をはさんで向かい合う沼田城を攻めるための、前線基地である。ねらいどおり、翌年に昌幸は沼田城を手に入れた。
ところが豊臣秀吉が天下を取りにかかると、事情が変わる。天正17年(1589年)、秀吉は沼田領をめぐる真田と北条の争いに裁定を下した。沼田城をふくむ三分の二を北条に、名胡桃城をふくむ残りの三分の一を真田に、という分け方である。名胡桃城は、二つの大勢力の境目にぽつんと残された。
同じ年の十一月、沼田城代となった北条方の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、名胡桃城代・鈴木重則(すずきしげのり)の家臣を味方に引き入れ、城を奪い取った。計略に気づいた重則は城へ戻ろうとしたが間に合わず、近くの正覚寺(しょうがくじ)で切腹したと伝わる。
秀吉は、これを自分の裁定を踏みにじる行為とみた。翌天正18年(1590年)、大軍を率いて小田原へ向かい、北条氏を滅ぼす。戦国の世は、これで実質的に幕を閉じた。名胡桃城はその直後に役目を終え、廃城となる。真田昌幸が築いてから、わずか十年ほどのことだった。
見どころ・特徴
【一直線に並ぶ郭】馬出し(うまだし)から三の郭、二の郭、本郭、ささ郭へと、郭(くるわ)が一本の線の上に並ぶ連郭式(れんかくしき)の山城。台地が細長いので、この形しかとれなかった。郭のあいだは空堀(からぼり)で切られ、いまは木の橋が渡してある。
【三方の崖】西側をのぞく三方が切り立った崖になっている。利根川と赤谷川にはさまれた地形そのものが守りで、攻めるには正面から郭を一つずつ抜けていくしかない。
【ささ郭からの眺め】いちばん奥のささ郭に立つと、沼田城址のある方角が見渡せる。この城が何のために築かれたのかが、ひと目で分かる場所である。
【本郭の碑】本郭の中央に「名胡桃城趾之碑」が立つ。建物は残っていないが、土塁(どるい)や空堀、三日月堀(みかづきぼり)といった土の造作がよく残り、歩きやすく整備されている。
【名胡桃城址案内所】城の模型と約8分の解説ビデオがある。御城印(和紙と木製の二種、各300円)はここでしか買えない。みなかみ町歴史ガイドの会の人が、無料で城内を案内してくれる。
【訪ねかた】ひと回りしておよそ40分。郭を順にたどれば縄張り(なわばり)の形がそのまま体で分かる大きさなので、案内所でビデオを見てから歩き出すと理解が早い。
学び・特徴
主祭神
真田昌幸鈴木重則
社格
群馬県指定史跡(昭和24年/1949年指定)。続日本100名城の115番。
創建
明応元年(1492年)に沼田氏の一族が名胡桃館を築いたのが始まりと伝わる。いまに残る城は、天正7年(1579年)ごろ真田昌幸が沼田城攻めの前線基地として築いたもの。天正18年(1590年)に廃城。
基本情報
住所
群馬県利根郡みなかみ町下津3462-2
見学時間
城址は見学自由で、入場は無料です。
名胡桃城址案内所は午前9時から午後4時まで(年末年始は休み)。歴史ガイドの案内は午前9時30分から午後3時30分まで、7月20日から9月30日は午前9時30分から午後2時まで。ガイドは火曜と木曜が休みです。続日本100名城のスタンプは案内所に置かれています。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
関越自動車道の月夜野(つきよの)インターチェンジから車で約6分。上越新幹線の上毛高原(じょうもうこうげん)駅、JR上越線の後閑(ごかん)駅からは、それぞれタクシーで約7分。後閑駅から歩く場合は約2.8キロ、45分ほどかかります。
名胡桃城址案内所に無料の駐車場(20台ほど)があります。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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