TabiShiri
城 御城印続日本100名城 第104番。昭和10年(1935年)、国の史跡に指定された。 二戸市

九戸城

くのへじょう

別名:福岡城(ふくおかじょう)※蒲生氏郷による改修後の呼称。地元では九戸城と呼ばれ続けた

この城について
九戸政実(くのへまさざね)が天正19年(1591年)、豊臣秀吉に対して挙兵した「九戸政実の乱」の舞台となった山城。豊臣秀次・徳川家康を総大将とする6万の大軍を前に、5千の兵で籠城した。本丸の一部には東北地方最古とされる石垣が残る。続日本100名城第104番。

歴史・由来

九戸城を理解する鍵は、豊臣秀吉による全国統一の総仕上げとして戦われた「奥州仕置き」の最後の戦いの舞台になったという点にある。 城主・九戸政実(くのへまさざね、1536-1591)は、南部氏の一族でありながら有力な家臣だった。南部氏の当主をめぐる後継者争いの末、政実と対立していた南部信直が豊臣秀吉の朱印状によって当主として公認されると、政実はこれに強く反発した。天正19年(1591年)正月、政実は三戸城への参賀を拒否して反意を示し、3月に挙兵。約5千の兵で九戸城に籠城した。 豊臣秀吉はこの反乱を重く見て、甥の豊臣秀次と徳川家康を総大将とする鎮圧軍を派遣した。9月2日、約6万ともいわれる大軍が九戸城を包囲した。浅野長政は、九戸氏の菩提寺・長興寺の和尚を使者に立て、「開城すれば城内の者は残らず助命する」と政実を説得。政実はこれを受け入れ、9月4日に白装束姿で降伏した。 しかし助命の約束は守られなかった。政実の弟・九戸実親をはじめ城内にいた者たちは二の丸に押し込められ、惨殺されたうえで火をかけられたと伝わる。政実ら首謀者は栗原郡三迫(現在の宮城県)へ連行され、処刑された。「九戸政実の乱」の鎮圧は、豊臣秀吉による奥州仕置きの最後の総仕上げとなり、これをもって秀吉の全国統一が完成したとされる。 乱の後、豊臣秀吉の命を受けた蒲生氏郷が城を改修し、南部信直に引き渡した。地名は「福岡」と改められたが、地元では長く「九戸城」の名で呼ばれ続けたという。慶長2年(1597年)に南部氏の本城が盛岡城へ移されると、九戸城はその役目を終え、寛永13年(1636年)に廃城・破却された。 近代以降は史跡として整備され、昭和10年(1935年)に国史跡に指定された。本丸・二の丸・三の丸などの曲輪(くるわ)が良好な状態で残り、本丸の一部には東北地方最古とされる石垣も確認できる。

見どころ・特徴

【東北最古とされる石垣】本丸の一部には、東北地方で最も古いとされる石垣が残る。土づくりの城が多い東北地方にあって、石垣を持つ九戸城は珍しい存在。 【本丸跡からの眺め】本丸跡からは、馬淵川(まべちがわ)と二戸市街を一望できる。 【九戸政実戦没者供養塔】城の北側には、政実らの菩提を弔うために九戸氏の菩提寺・長興寺の僧によって建てられた供養塔がある。悲運の武将を偲ぶ参拝者が今も絶えない。 【九戸城ガイドハウス】九戸政実の乱の歴史を学べる施設。開館期間は4月上旬から11月30日まで(時間:10時から15時まで)。この期間はボランティアガイドの案内も受けられる(要事前予約)。
学び・特徴
指定・選定
続日本100名城 第104番。昭和10年(1935年)、国の史跡に指定された。
築城
築城の正確な年代は不明。江戸時代の軍記物によって説が分かれ、『系胤譜考』では7代目・九戸光政の代、『奥南落穂集』では12代目・九戸信実の代に築かれたとされる。南部氏の一族である九戸氏が築いたと伝わる。
テーマ
続日本100名城石垣
基本情報
住所
岩手県二戸市福岡城ノ内
見学時間
史跡公園自体は入場自由・無料でいつでも見学できる。九戸城ガイドハウスの開館期間は4月上旬から11月30日まで(時間:10時から15時まで)。この期間はボランティアガイドの案内も受けられる(要事前予約、二戸市観光ツーリズム協会 電話番号は市の公式サイトでご確認ください)。

⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。

アクセス
東北新幹線・IGRいわて銀河鉄道「二戸」駅から、JRバスまたは岩手県北バスに乗り「呑香稲荷神社前」バス停で下車、徒歩5分から10分程度。二戸駅から徒歩の場合は30分以上かかるとの情報もあり、距離があるため公共交通機関の利用がおすすめ。車の場合は、八戸自動車道「一戸」インターチェンジから約8分。無料駐車場(約10台分)がある。
記念メダル

スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。

見学記録

記録を確認中...