この城について
寛永元年(1624)、松倉重政が築城。重政の過酷な年貢取り立てが寛永14年(1637)の「島原の乱」の遠因となった、悲劇の歴史を持つ城。雲仙岳を背景に、五重五階の白亜の天守が美しい。
歴史・由来
寛永元年(1624)、松倉重政(まつくらしげまさ)が築城。雲仙岳を背景に、五重五階の白亜の天守が美しい近世城郭。
松倉重政は、徳川家康に重用された大名で、4万石の小藩主ながら、自らの権威を誇示するため、当時としては破格の大規模築城を強行した。
築城費用を捻出するため、領民に過酷な年貢を課したことが、寛永14年(1637)の「島原の乱」の遠因となった。重政の子・勝家の代、領民の不満が爆発し、天草四郎(あまくさしろう、本名・益田四郎時貞)を首領とする3万7千の農民・キリシタンが蜂起。
幕府軍12万の総攻撃で、寛永15年(1638)、原城(島原半島南部)に籠城した一揆勢は皆殺しにされた。「島原の乱」は、徳川幕府の完全な鎖国体制への引き金となった、近世日本史最大の民衆蜂起。
松倉氏は乱の責任で改易、松倉勝家は斬首(武士の身分では最も恥辱な処刑)された。日本史上、改易ではなく斬首された大名は極めて稀有。
その後、高力・松平・戸田・松平と城主が変遷、明治維新まで松平氏7代の居城となった。
明治の廃城令で天守は解体。昭和39年(1964)、鉄筋コンクリートで復興天守が建立。
見どころ・特徴
JR長崎本線「諫早」駅から島原鉄道で「島原」駅、徒歩約10分。
復興天守は五重五階。白漆喰の優美な姿で、背後に雲仙岳の絶景が広がる。
天守内部はキリシタン史料館・郷土史料館・天草四郎史料館などが入り、島原の乱・キリシタンの歴史を立体的に学べる。
「巽櫓」「丑寅櫓」「西櫓」など、復元された櫓群が立ち並び、近世城郭の威容を再現。
「島原の乱」「天草四郎」関連の史跡として、長崎・島原・天草を巡るキリシタン史聖地巡礼コースの中心。
「鯉が泳ぐまち」と呼ばれる島原の城下町には、清流の溝に鯉が泳ぐ独特の街並みが残る。
参拝後は、雲仙岳・雲仙温泉、原城跡(島原の乱の最終舞台、世界遺産)と組み合わせて、島原半島の魅力を堪能できる。
基本情報
住所
長崎県島原市城内1-1183-1
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
記録を確認中...