この城について
豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592から1598)の本営として、天正19年(1591)に築いた城。黒田孝高(官兵衛)・黒田長政・加藤清正・小西行長・寺沢広高らが普請を担い、わずか8か月で完成した。当時は大坂城に次ぐ規模を誇ったとされる。秀吉の死去をきっかけに朝鮮出兵は終わり、城もわずか数年で姿を消した「幻の名城」として知られる。
歴史・由来
名護屋城を理解する鍵は、わずか数年のあいだに日本最大級の城と「臨時の首都」が現れ、そして跡形もなく消えていったという、その急激な栄枯盛衰にある。
天正19年(1591)、豊臣秀吉は朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592から1598)の本営として、玄界灘(げんかいなだ)に突き出した東松浦半島の先端にこの城を築くことを命じた。普請奉行には黒田孝高(くろだたかたか、官兵衛)・黒田長政(くろだながまさ)・加藤清正(かとうきよまさ)・小西行長(こにしゆきなが)・寺沢広高(てらざわひろたか)らが名を連ね、九州の大名を中心に動員された。工事はわずか8か月で進み、文禄元年(1592)3月に完成した。本丸・二の丸・三の丸を備えた本格的な近世城郭で、当時は大坂城に次ぐ規模を誇ったとされる。
城下には、全国から約160名の大名が陣を構えたと伝わる。最盛期には人口10万人を超え、京都や大坂をもしのぐといわれるほどの一時的な賑わいをみせた。秀吉自身も、朝鮮出兵の期間中、断続的に合計で1年余りをこの城で過ごし、ここから朝鮮への軍勢派遣を指揮した。
慶長3年(1598)、秀吉が死去すると朝鮮出兵は終わりを迎え、軍勢は撤退した。慶長7年(1602)、初代唐津藩主となった寺沢広高が、新しい唐津城を築くためにこの城の天守などを解体し、建材として転用した。さらに寛永14年(1637)、島原の乱の直後には、一揆の勢力に利用されるのを防ぐため、幕府の指示で石垣が徹底的に破却されたと伝わる。築城からわずか数年で主要な役割を終え、以後は長く「幻の名城」となった。
昭和30年(1955)、城跡と周辺の陣跡をあわせて「名護屋城跡並陣跡」として国の特別史跡に指定された。平成18年(2006)には、日本100名城の第87番に選ばれている。
見どころ・特徴
【天守台と広大な石垣】
天守台・本丸跡・三の丸跡など、広大な石垣の遺構が残る。建物はないが、秀吉が築いた当時の規模を感じさせるスケール感がある。
【佐賀県立名護屋城博物館】
城跡に隣接する博物館で、朝鮮出兵の歴史や名護屋城の構造、秀吉や諸大名の暮らしぶりを学べる。入館は無料(特別企画展は有料)。
【諸大名の陣跡めぐり】
城の周辺には、徳川家康・前田利家・伊達政宗など、約160名にのぼる大名の陣跡が点在する。歩いて巡れば、戦国時代の名だたる武将たちが集った当時の規模を体感できる、他に類を見ない遺跡群となっている。
【呼子のイカ】
名物「呼子(よぶこ)のイカ」で知られる呼子港が近く、新鮮なイカ料理を味わえる。
学び・特徴
指定・選定
昭和30年(1955)8月22日、「名護屋城跡並陣跡」として国の特別史跡に指定された。平成18年(2006)4月6日、日本100名城の第87番に選定されている。
築城
天正19年(1591)、豊臣秀吉が朝鮮出兵の本営として築いた。
テーマ
特別史跡日本100名城朝鮮出兵ゆかりの地
基本情報
住所
佐賀県唐津市鎮西町名護屋
見学時間
城跡は特に定められた見学時間はなく、見学の目安は30分から40分程度。清掃協力金として、大学生以上は100円の協力をお願いしている。隣接する佐賀県立名護屋城博物館は、午前9時から午後5時まで(入館無料)。月曜休館(祝休日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日から1月3日まで)も休館。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
JR唐津駅から、大手口バスセンターまで徒歩約8分、そこから路線バスに乗り(便によっては呼子で乗り換え)、「名護屋城博物館入口」で下車して徒歩約5分。車なら、長崎自動車道・佐賀大和ICから多久ICを経由して国道203号・204号で約70分。駐車場は無料で、名護屋城跡と博物館で共用する。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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