この城について
室町時代、能登守護・畠山氏の本拠として築かれた山城。標高約300メートルの尾根上に、複数の曲輪と石垣を巧みに配した北陸最大級の規模を誇り、「日本五大山城」の一つに数えられることもある。天正5年(1577)、上杉謙信の攻城戦の末に落城し、畠山氏は事実上滅亡した。日本100名城(第34番)に選ばれている。
歴史・由来
七尾城を理解する鍵は、能登一国を治めた畠山氏の170年近い歩みと、その終わりを告げた上杉謙信の攻城戦にある。
応永15年(1408)、畠山満慶(はたけやまみつのり)が能登守護に任じられ、能登畠山氏の歴史が始まった。城そのものの築城は正長年間(1428〜1429)頃と考えられている。以後、満慶の子孫が能登守護を世襲し、5代当主・畠山慶致(よしむね)の頃に守護所が山麓から七尾城へ移された。畠山義続(よしつぐ)・義綱(よしつな)の時代には戦乱が続き、城は大規模に拡張されて最大規模となった。
天正4年(1576)、上杉謙信が能登に侵攻。約1年にわたって七尾城を攻め続けたが、城内では重臣同士の対立が起き、最終的に家臣・遊佐続光(ゆさつぐみつ)の内応により、天正5年(1577)9月15日に落城した。この戦いで畠山氏は事実上滅亡し、能登は上杉領となった。
謙信がこの陣中で詠んだとされる漢詩「九月十三夜陣中作」は、頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』によって広く知られるようになったが、現在の学界では後世の人が謙信の心境に仮託して作ったものとする見方が有力で、謙信自身の作と確証されているわけではない。
織田信長の反攻を経て、天正9年(1581)頃には前田利家が能登に入り、山麓に小丸山城(こまるやまじょう)を築いて新たな拠点とした。七尾城はその後も利家の子・前田利政(としまさ)が城主を務めて存続したが、豊臣政権下の天正17年(1589)頃に廃城となったと考えられている。
見どころ・特徴
【北陸最大級の総石垣】
本丸をはじめ各曲輪に残る「野面積み(のづらづみ)」の石垣は、七尾城最大の見どころ。中でも桜の馬場に残る石垣群は五段に組まれ、城内でも最大規模を誇る。
【本丸からの絶景】
標高約300メートルの本丸跡からは、七尾湾と能登島、対岸に連なる能登の山々を一望できる。晴れた日には遠く立山連峰まで望めることもある。
【謙信の詩碑】
本丸の一角には「九月十三夜」の詩を記念する詩碑が立つ。謙信自身の作かどうかは学術的に議論があるが、後世に語り継がれてきた七尾城の物語を象徴する碑として親しまれている。
【七尾城史資料館】
山麓の資料館では、畠山氏の統治と文化、上杉謙信の能登攻めについて学べる。御城印もここで入手できる。
学び・特徴
創建
正長年間(1428〜1429)頃、能登守護・畠山満慶が築城したと伝わる。
テーマ
日本100名城山城・戦国史跡
基本情報
住所
石川県七尾市古城町
見学時間
城跡自体は常時見学可能(自由散策)。山麓の七尾城史資料館は9時から17時まで(入館は16時30分まで)。月曜日、祝日の翌平日、冬期(12月11日〜3月10日)は休館。
⚠️ 情報が古い場合があります。最新の受付時間は公式サイト等でご確認ください。
アクセス
公共交通の場合、JR七尾線「七尾」駅から市内巡回バス「まりん号」東回りで約13分、「古屋敷町」下車。本丸までは徒歩約60分の山道です。車の場合は、能越自動車道「七尾城山」インターチェンジから約15分、のと里山海道「上棚矢駄」インターチェンジから約30分。本丸近くに無料駐車場(本丸北駐車場)があります。
なお、令和6年(2024)の能登半島地震により、城山神社の鳥居の倒壊や石垣の一部崩落がありました。本丸跡までの見学は可能ですが、一部区域は立入禁止・迂回ルートとなっているため、訪問前に最新の状況を七尾市などでご確認ください。
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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