この城について
中世伊予の有力大名・河野氏の本拠地として、約250年間にわたって伊予国の中心であった城。天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻めで開城・廃城。日本100名城・国指定史跡。
歴史・由来
中世伊予国の有力大名・河野氏(こうのし)の本拠として、建武2年(1335)頃から天正13年(1585)まで、約250年間にわたって伊予の政治・軍事の中心であった城。
河野氏は、平安期から伊予水軍を率いて瀬戸内海に勢力を誇った、伊予国の最有力氏族。源平合戦では源氏方として活躍し、河野通信(こうのみちのぶ)は壇ノ浦の合戦に水軍を率いて参戦した。
南北朝期、河野氏は南朝方として活動し、湯築城を本拠として伊予国を支配。室町期には伊予守護として、瀬戸内海の海運と、伊予の山岳信仰(石鎚山)の両方を統括する独特の地方権力として君臨した。
戦国末期、織田信長・豊臣秀吉の中央集権化の波に対して河野氏は抵抗を続けたが、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国平定軍に小早川隆景が大将として侵攻。湯築城は無血開城し、河野通直(みちなお)は降伏。約500年続いた河野氏の伊予支配は終焉を迎え、城も廃城となった。
その後、小早川隆景・福島正則・加藤嘉明と城主が変遷し、加藤嘉明が松山城を新たに築城した際、湯築城の機能は松山城に移され、湯築城は完全に城郭としての役割を終えた。
平成14年(2002)、国の史跡に指定。平成19年(2007)、日本100名城に選定。発掘調査と復元整備が進み、現在は「道後公園湯築城跡」として、中世武家屋敷の姿を体感できる稀有な遺跡となっている。
見どころ・特徴
伊予鉄道城南線「道後公園」駅すぐ、または市内電車「道後温泉」駅から徒歩約3分。道後温泉のすぐ隣、道後公園内に城跡が広がる。
「天守を持たない中世城郭」というのが湯築城の特徴。城跡には堀・土塁・武家屋敷跡が良好に残り、戦国以前の「中世日本の城」の姿を、教科書を立体化したように体感できる。
復元された「武家屋敷1・2」は、河野氏家臣の屋敷を発掘調査の成果に基づいて再現したもの。土壁、茅葺き屋根、囲炉裏のある室内など、室町期の武家の生活が極めてリアルに復元されている。
「湯築城資料館」では、発掘調査の出土遺物(中国産青磁・国産土器・武具・装飾品など)が展示され、河野氏の文化レベルの高さを伝える。
公園内の「展望台(標高約71m)」からは、松山平野・松山城・瀬戸内海まで一望できる絶景。
道後温泉本館(明治27年完成、近代日本の温泉建築の傑作)まで徒歩3分の立地。「中世城郭で歴史を、道後温泉で湯を」のコンビは、松山観光の定番の組み合わせ。
桜の名所としても親しまれ、春の道後公園の花見シーズンは賑わう。
基本情報
住所
愛媛県松山市道後公園
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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