
この城について
築城名人・藤堂高虎の最高傑作と称される日本三大水城の一つ。慶長7年(1602)着工、慶長9年(1604)完成。海水を引き込んだ広大な堀と、層塔型天守の先駆けとなった画期的な城。

天守閣

Syced, CC0, via Wikimedia Commons
歴史・由来
築城名人・藤堂高虎(とうどうたかとら)の生涯の傑作と称される城。日本三大水城の一つ(高松城・中津城・今治城)にして、近世日本城郭建築の画期的革新を打ち出した存在。

築城は慶長7年(1602)。関ヶ原の戦功で伊予半国20万石を与えられた高虎が、それまでの「板島城(宇和島城)」を本拠としていたところ、瀬戸内海の流通の要衝・今治の地に新たな本拠を移すべく築城を開始。慶長9年(1604)に完成した。
この城の最大の革新は、二つある。
第一に「海城」としての設計。瀬戸内海の海水を直接引き込んだ広大な堀(最大幅約60m)に船を着け、本丸まで直接物資を運び込める構造。これは「軍事的要塞」であると同時に「海上交易の拠点」でもある、極めて実利的な発想。瀬戸内海を制する者が日本を制する、という戦国期からの考え方の到達点。
第二に「層塔型天守」の先駆け。それまでの「望楼型」(戦国期の戦闘的様式)から、規格化された「層塔型」へと天守様式を切り替えた最初期の事例。これは後の名古屋城・大坂城再建天守などに継承される「近世天守の標準型」の原型となった。
ただし、高虎は慶長13年(1608)、伊勢津藩へ転封。元和元年(1615)、一国一城令により今治城は今治藩・松平氏の居城として残り、明治の廃城令まで続いた。
明治の廃城で建造物のほとんどを失い、現在の天守は昭和55年(1980)の鉄筋コンクリート復興天守。だが石垣・堀は江戸期からの遺構が良好に残り、藤堂高虎の天才ぶりを今に伝える。

見どころ・特徴
何といっても、海水を満々と湛えた巨大な堀。城を一周する内堀は最大幅約60m、深さ約4m。瀬戸内海の潮の干満が今もダイレクトに反映され、堀には鯛・チヌ・ボラなど海の魚が泳ぐ、まさに「海と一体化した城」。
「日本三大水城」を実体験できる絶景は、ここでしか味わえない。堀端を歩くと、塩の香りと潮風が体を包み、戦国期の瀬戸内の海戦の臨場感が蘇る。
「鉄御門(くろがねごもん)」は、平成19年(2007)に古絵図に基づいて木造復元。瀬戸内産の松を用い、伝統工法で再建された圧巻の門で、今治城復元の代表作。
天守は昭和55年(1980)の復興天守(鉄筋コンクリート)。古絵図には天守の正確な姿は残らないため、藤堂高虎が後に建てた丹波亀山城・伊賀上野城などを参考に推定再現された。内部は今治城歴史博物館となっており、藤堂高虎の生涯と築城技術を学べる。
天守最上階からは、瀬戸内海・しまなみ海道・四国本土まで一望。特に夕陽が瀬戸内海に沈む頃の絶景は、近代瀬戸内の風景写真の名所。
吹揚公園として整備された城域には、藤堂高虎の銅像、桜の名所がある。3月下旬の桜と石垣の対比は、四国を代表する花見スポット。
しまなみ海道のサイクリングと組み合わせて、藤堂高虎の海城を堪能できる。
基本情報
記念メダル
スポットの近く(200m 以内)で位置情報を有効にしてチェックインすると獲得できます。
見学記録
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